たとえ言葉が風だとしても~開発的ビジネス論序論~

開発とビジネスの架橋を目指した新たなシステムを議論・検討・批判する場です。

とあるバスの情景<行きはよいよい帰りはこわい>

<行きはよいよい>

 

ちょうど昼時に入る頃、私はバスに乗り込み、展示会が開かれる街中へと向かっていた。市民の足である公共バスは当然ケニア人が利用するもので、車内で異邦人は私だけだった。積み込めるだけ乗客を積め込んだバスは、凸凹する路面にまるでヒップホップでも踊るかのようにアップダウンを繰り返しつつ、その度乗客の体を前後に揺さぶる。ここらの道は中国企業が作った大分マシなものだが、これが郊外や田舎を走ると更にバスは上機嫌に乗客を揺さぶり、時には天井に頭が激突することもある。なんということはない、ケニアではよくある光景といっていいかもしれない。

 

車窓から流れる風景に目をやった。晴れた良い天気だったが、雲の様子からすると午後から雨が降るだろう。地平線の端っこの方にあるゴミ集積所からは薄汚れた色をした煙が立ち込めていた。こうした集積所はナイロビには何か所かあり、生活に苦しむ者や犯罪を犯した者がよく集まっている。ゴミを換金して糊口をしのぐためだ。その中には女性も子どもいる。ゴミを燃やしたときに出る煙には化学物質が含まれており、そこで暮らす住民の健康問題が度々問題となっている。皮肉な言い方をすれば、彼らはゴミによって生かされ、ゴミによって殺されてもいる。そういう現実もこの街には存在する。

 

アパートが集まる地域に差し掛かると、十人ほどの男たちがパンガ(山刀)を手に空地で草刈りをしていた。リズミカルに腕を右に左に振り、その度に草が宙を舞う。ただ草を刈っているだけにすぎないはずなのに、なぜだか踊りや儀式の様に見えてくるから不思議だ。時にケニア人は日常風景にまでリズムやダンスを持ち込んでしまう。男たちは右に、左に、草を舞わせる。よく目にする何でもない風景に、いつのまにか目が離せなくなっていた。

 

何気なしに隣の乗客に目が向いた。肩幅の広い男性だった。ぎゅうぎゅう詰めの車内で文字通り肩を寄せ合って乗り込んでいるため、ゴツゴツした肩が私の体を押しつぶそうとしていた。手元を見てみると、節くれだった、働き者の手をしていた。こういう手をしている人間は大体信用できるヤツなんだよな、と勝手な憶測が思い浮かぶ。そういえば先ほど電話に出たとき、何やら一生懸命商談の交渉をしていた。何となくその男性に興味が涌き、自然と声をかけていた。男性も手持無沙汰だったようで、その後の道中は退屈せずにすんだ。

 

<帰りはこわい>

展示会も終わり、それなりの収穫を手に、帰りのバスに乗り込んだ。展示会では日系企業も何社か参加しており、メディアを引き連れた省庁のお偉いさんの訪問に堂々とした応対をしていたのが印象深かった。私は全く関係ないのだが、誇らしく嬉しい気持ちになったのは私も日本人だからだろうか。二年前に若いインド人が始めたというガラス加工メーカーは今や年商が一億シリング、従業員五十人以上を抱える企業に成長し、工場の訪問依頼にも快く応じてくれた。未だ事業すら開始できていない弊社の現状を思い出すとため息が止まらないが、それでも彼らを見習ってやるしかないと再会を約束して固く握手を交わした。

 

手元の成果に満足してバスに乗り込んだが、次第に雲行きが怪しくなってきた。ナイロビの雨は急に来る。先ほどまではうっすら汗をかくほどだったはずが、たちまち車内は肌寒くなり、すぐに横殴りの雨がバスを襲った。台風でもないのに雨がうねるように叩きつけ、風が吹くとうっすら色づくほどである。頭上からポタっと水滴が落ちてきた。天井に穴が開いていたようで、いやがらせのように冷たい感触が頭とひざにたたみかける。道路はたちまちに川へと変わり、またたくまに大渋滞となった。

 

さて、どうやって帰ろうか。行きよりもぎゅうぎゅう詰めの車内で頭をかかえたくなるが、そんなスペースはどこにもない。お手上げ状態で隣の乗客と帰宅戦略について話した。

「君の家はどこ?え、パイプライン?俺よりも遠いじゃん。こういうときどうすればいいの?」

「普通は止むまでどこかで雨宿りだね。でも、雨宿りするまでにずぶ濡れになるから意味ないよ」

帰宅戦略はすぐさま暗礁にのりあげた。

 

そうはいっても、結局家に帰らなければならない。バスの外に出るのはとてもためらったが、意を決して踏み出すことにした。乗客をかき分け車外に出ようとする私をまるで珍獣か何かを見るような目で見るおばさんやささやかなエールをおくるような目で見るおばあさんを尻目に、ようやくドアまでたどり着いた。そしてすぐに後悔した。ドアが開かれたすぐ先が、どでかい水たまりだった。深さを測りかねるほどの深さのところに革靴で踏み込めというのか。しかもその水たまりに素晴らしい勢いで水が流れ込んでおり、足をとられかねないほどなのだ。しかし、ドアを開けっぱなしにしていたら雨がザーザーと車内に入ってきてしまう。足の踏み場などどこにもないけど、それでも踏み出さないといけない時もある。

 

道を開けてくれた乗客の皆さんに「ありがとう!そんじゃ行ってくるわ!」と告げると、学生らしき兄ちゃんからやる気のない「グッドラック」という言葉をもらった。観念して水たまりに踏み出し外に出ると、ため息は白く変わり、すぐさまガチガチと歯が鳴った。

マラソン応援とネーションビルディング~「ケニア人」と「民族」って何?~

<使い分けられるアイデンティティ

先日カフェでご飯を食べていると、いつにもましてお客さんたちがテレビに熱い視線を送っていた。自分も気になってテレビに目をやると、ちょうどロンドンマラソンの終盤が放映されているところだった。お茶を飲みながらぼーっとしていると、女子ではケニア人選手が見事に一位でゴールした。周りからは歓声と拍手が沸き、我らがケニア人の優勝という喜びが広がっていた。

 

私はふと、何とも言えない違和感を覚えた。例えば日本人が日本選手の優勝を喜ぶ。これは理解できる。「ケニア人」が「ケニア人」の優勝を喜ぶ。これを素直に理解できないのだ。なぜなら、ケニアでは歴代的に民族というアイデンティティが強く存在しつづけ、特に選挙という政治が関わる場面では必ずと言っていいほど、民族問題が表面化してきた。去年の選挙でも民族ごとに社会が分裂し、小規模ながら死者がでる衝突まで発生している。優勝した女性選手とここのカフェに来るお客さんは異なる民族に属している。しかし、今は同じ「ケニア人」として、勝利の余韻に浸っているように見えた。「ケニア人」と「民族」を隔てる壁、これは高いのだろうか、それとも低いのだろうか。そんな疑問が頭をよぎった。

 

<「国民」って何だろう?>

そもそも国民とは何だろう?私達は、「国民」というものを直接見ることはできない。例えば、沖縄から北海道まで、私達は日本の国民であると思っている。日本代表を熱烈に応援している人たちもほとんどが日本の国民だと思う。しかし、これが日本人です、という意識を直接見ることはかなわない。にも関わらず、私達は確かに日本人というアイデンティティを持っている。これはどういうことだろうか。

 

ベネディクト・アンダーソンという有名な政治学者はこんなことを言っている。特定のアイデンティティ集団は共通の神話や言語、歴史等々を共有していると。裏を返せばそれら共有物を共有することで私達は特定のアイデンティティ集団の一員となるのである。どういうことか。例えば、沖縄では決して雪が降らないにも関わらず、おそらく雪女の昔話を知っているだろう。本来はありえないことである。しかし、現に彼らは知っている。なぜか、彼らが日本人として、同じ昔話を共有しているからである。日本全国桃太郎の話を知らない日本人は稀だと思うが、地元で桃が採れる地域は稀かもしれない。にも関わらず、私達は桃太郎の話を理解している。また、「大戦」というキーワードを聞けば第二次世界大戦のことを思い起こすだろう。日本語を理解し、日本の昔話または歴史として共有している、日本に住むアイデンティティ集団の一員であるからだ。分かりづらいかな。

 

こうした話はネーションビルディングに関わる。Nation buildingとは「国家建設」と訳されることもあるが、実際には国民統合や国民意識の造成のことを指す。国家建設はState buildingの方が一般的だろう。このネーションビルディングがアフリカでは極めて重大な課題であり続けている。なぜなら、独立後、国民として人々が一つにまとまっている国は稀で、多くの国で民族間の紛争や市民暴力の嵐が吹き荒れているからだ。フツ族ツチ族が衝突したルワンダジェノサイドは未だ記憶に新しいだろう。ケニアでも紛争、衝突、虐殺、暗殺といったことが民族を軸に行われてきた。一度酒が入ると、いつも紳士なケニア人が、ところ構わず他民族を馬鹿にしたり蔑んだりする発言を繰り返すということは珍しいことではない。一つ言えることは、時と場合によって、歴史的に「ケニア人」というアイデンティティよりも自らの民族アイデンティティを優先させる、ということは決して珍しいことではないということだ。

 

<多層アイデンティティの現在>

ケニアで民族アイデンティティは時に国民アイデンティティよりも上位にくる。しかし、マラソンの観戦をし、異なる民族の選手の優勝を喜ぶこともまた事実である。つまり、民族アイデンティティよりもケニア人としてのアイデンティティが上位にくることがある。去年まで血みどろの衝突、当たり構わず異民族の罵倒をしたり陰口をしていた住民がマラソンケニア人の勝利を喜んだりする。ケニアではこのように、多層的なアイデンティティがTPOによってそれぞれ顕在化することがよくあるのだ。

 

未だ「民族」というものはケニアで大きな問題であったりする。民族を理由に就職採用が決まる、入学許可の可否が決まる、川でおぼれる人を助けるかどうか決まる、近隣トラブルに巻き込まれるか決まる等々、多くの事柄の判断基準になっている。特に農村とスラムではこうした傾向が強い。もちろんそれには理由があるが、本記事では割愛する。ときにnegative ethnicityという言葉が示すように、民族を理由にとても理不尽で不当な扱いを受けることも多い。同じ「ケニア人」であるにも関わらず、だ。

 

ラソン観戦で無邪気にはしゃぐ彼らを見て思った。自分に少しでもかかわりのある事であれば、もしかしたら関わりのないことでさえ、一緒に喜んだり楽しんだりしていりゃあ、その内民族という小さい問題は忘れさられるのかな、と。それはあまりに楽観的な考えだと思いつつ、希望を抱くには無視できないくらいには大きい望みなのかもしれない。僕はやっぱり、「ケニア人」はケニア人として仲良くやってほしいと願ってしまうのだ。

警官が「権力と暴力の豚」に成り下がるとき ~道を歩けば逮捕される、ナイロビ東部の日常~

 あなたはこれまで何回銃を向けられたことがあるだろうか?おそらく日本人にこの質問をしてみたところで、たちの悪いジョークに聞こえるだけかもしれない。しかし、筆者はこれまで何回もケニアで銃を向けられてきた。おそらく十回はいかないくらいだろう。そして、そのほとんどは警官によって向けられたもので、ときには脅しのため目の前で銃弾が装填され、薄ら笑いを浮かべながら銃口をこめかみに突き付けられた。大抵の場合、普通に町を歩いていた時のことだった。

 ケニアではガードマン、巡回する警官、移動中の陸軍隊員など、日本に比べて銃を目にすることが多い。そのような中で普通の日常を過ごす人々が警官によって銃で脅され、賄賂を支払わざるを得ない場面にもよく出会う。「人を守る」ことを名目に銃の携帯が許可されているはずのケニアで、なぜその銃口が人々に向けられるのだろうか。私が住んでいる町で起こった出来事を二人の知人の体験談から紹介したい。なお、この知人たちは私と頻繁に交流がある者であり、名前以外はすべて事実であることを明記しておく。

木曜の夜の悪夢

 トゥコとアブドゥルは木曜の夜、ドンホルムという町のある酒場で飲んでいた。地元民がカルテックスと呼ぶガソリンスタンドの近くで、時刻は午後八時を少し回ったところだった。小腹が空いたので別のレストランで軽くつまもうということになり、それなりに人でにぎわう道を歩いていた。

 たまたま会ったトゥコの友人と談笑しているときのことだった。背後からいきなり警官に「止まれっ!」と呼び止められ、何が何だか分からないまま、その場に居合わせた5名の若者たちは警官と向き合った。「おいおい、何かあったのか」とアブドゥルが問いかけてみるも、警官は「止まれ」と命令を続ける。そして、携帯している銃の弾丸を装填し、鈍く嫌な音が鳴った後、その銃口はこちらに向けられ、説明もないままジッと銃と対峙した。

 立ちすくむ若者たちを尻目に警官は携帯電話で応援を呼び、またたくまに2名の警官がやってきた。このまま警察に連行されると面倒なことになる。トゥコは知り合いのMCA(Member of County Assembly、日本でいう市議会議員のようなもの)にすぐさま電話をし、警官への説得を試みた。しかし、警官が電話の向こうにいる面倒なMCAと話す気になるはずはない。結局警官にとりあってもらうことはできず、そのまま移送車でブルブルという町にある警察署に連行されることとなった。

 「銃をちらつかせて賄賂をせびろうとする。しょっちゅうあることだ。ひどいもんだよ」と、アブドゥルは語った。

 

車上の横暴

 移送車にはすでに20名ほどが捕まっていた。多くは男性だったが、女性もいる。ある若者が「これからどこに連れていかれるんだ」と警官に尋ねた。警官はおもむろに若者の頬を何度もひっぱたき、黙るまでそれは続けられた。

 拘束された人たちの名前と国民IDカードを確認している最中、こんなやりとりもあった。警官がIDカードを見て、いきなりこう言いだしたのだ。

「おいおい、彼はキクユ人じゃないか。彼が政府や我々にたてつくことはない。解放しよう」

 解放されることになった若者はトゥコとアブドゥルの友人で、さっきまで路上で談笑をしていた相手だった。自分たちも全く同じ状況だったはずだ。それなのに、民族の違いで彼は解放され、自分たちは車上に取り残されることとなった。理不尽を目の当たりにしつつも、彼らにできることは何もなく、結局口をつぐんだまま警察署へ移送された。

 

金で買える自由

 警察署に着くとすぐに、露骨な賄賂要求が始まった。これが本業と言わんばかりに、手を変え品を変え、賄賂をよこせとせびってくる。

「ここはケニアだ。釈放には賄賂を与える必要がある」

 トゥコとアブドゥルは辛抱強く警官をなだめすかしたが、数千シリングを払って早々と解放された者もいたという。そして、交渉を誤り、そのまま刑務所に送られてしまった若者も数人いた。トゥコとアブドゥルが解放されたのは、結局夜が明け、昼下がりになった頃だった。

 

 ケニアの警官について思うところはあるかと聞いたところ、二人は諦め顔でこんなことを言った。

ケニアのポリスについて思うこと?彼らはプロフェッショナルじゃないよ。賄賂をもらうためなら何でもやっている。それがポリスの仕事であるはずがない」

「彼らの行為に正義はあるかって?絶対にない、断言できる。ケニアに良いポリスがいたとしても、全体の2%くらいなもんだろ」

 話の締めくくりとして、最後にケニアのこんなジョークを教えてくれた。

ケニアにはポリスに対してこんなジョークがある。警官が奥さんに向かってこう言うんだ。ウガリ(ケニアの主食)を作っておけ、俺は肉をとってくるって。そんで外に歩いて行って、適当な奴を捕まえて、最後は家に肉を買って帰ってくるわけだ。どういうことか分かるだろ?」

 

ナイロビ東部の「よくある出来事」

 この事件が起こったのはナイロビ東部の新興中間層が多く住む町だ。周りのエリアと比べて治安が良いと評判で、大手企業や省庁に勤めている者も住んでいる。それにも関わらず、こうした警官による職権乱用は常態化しており、さして珍しいことではない。言うならば、定期的に開かれるパーティの様なものだ。もちろん、主催者は警官で、「哀れな招待客」は手荒な歓迎から逃れることはできない。

 ナイロビ内で比較をしたとき、アブドゥルは警官の対応に違いがあると指摘している。

「こんなことはケニアではよくあることだ。特にナイロビの東部ではね。スラムだと警官がもっと暴力的だから、ここら辺はまだマシな方だ。例えばウェストランズ(ナイロビ西部の町。日本人居住者も多く住む)で警官と衝突したとしても、彼らのやり口は全く違う。ウェストランズに住んでいるような人は知り合いに弁護士がいたり、権力者がいたりするから、警官が無茶できないんだ。相手によって対応が全然違うよ」

 同じナイロビでもほんの数百メートル違うだけで、そこに住む人々も警官の対応も大きく異なる。権力と暴力を背景に金をせびろうとする警官にすれば、東部の住民はほどほどに金を持っており、なおかつ面倒な弁護士や権力者とは無縁な「都合の良いお客様」なのかもしれない。

 ナイロビでは日常の中で警官の横暴に相対することも多く、侮蔑感と不信感、あるいは恐怖を持っている住民が多い。ナイロビ東部のこのような「日常」が変わる日は来るのだろうか。

TEAR GASS(催涙ガス、あるいは、人々を切り裂くガス)

 社員から電話が来た。現在某中東メディアからの依頼で記事作成を進めるためケニア中を回っているが、取材費が足りなくなったようで、至急入金をしてほしいと言ってきた。今日は大統領就任式が開催され、すでにカサラニスタジアムで野党支持者と警官隊の間で衝突が発生をしており、野党の政治集会が予定されているこの地域でもトラブルが起こる可能性は高かった。少しの逡巡の後、入金をするならば集会まで時間がある今がベストかもしれないと判断し、用心しながら外にでることにした。

 

 違和感を一瞬で理解した。外はいつもの状況ではなかった。人通りが異常に少なく、通りゆく人は心なしか足早に駆け抜けていく様だった。馴染みの新聞売りをしているおっちゃんもどこか途方にくれたような困った顔をしてこちらに笑いかけてきた。一目で分かる、今日は商売上がったりの日だ。せめてもとデイリーネーションを一紙買いこみ、悪い雰囲気だ、お前も気をつけろと二言三言交わし、私を用事を済ませるためキオスクに駆け込んだ。

 

 用事が済んだ後、定期的によるカフェで飯をかきこんでいた。今日の状況を考えるならば、しっかりと食べる時間は今しかない。自炊をしようにも店がほとんど開いていなかったため、比較的早く食事を用意してくれるここでさっさと食べ溜めておこうと考えた。メニューもすぐに出せるものを選び、テレビで流れる豪奢な就任式の様子を不安げに見つめていた。程度の度合いこそあれ、ここら一体の地域の住民で不安と恐怖を感じていないものはいないだろう。テレビの向こう側に映し出されるパレードのような光景を見て、なぜこことあそこはこんなに遠いのだろうかという疑問が頭をよぎった。

 

 その時、急な破裂音が耳を引き裂いた。すぐに分かった、これは催涙ガスの音だ。銃の射撃音が乾いた無機質な音なのに比べ、催涙ガスの射出音は少しくぐもって湿ったような音を出す。音の後には住民の悲鳴と怒声が追い付いてきた。ケニア人の野次馬根性はなかなか大したもので、外で騒ぎがあると多くの人は必ずと言っていいほど「何だ何だ」と様子を見に行く。しかしこの時は違い、さっきまでそこでお茶を飲んでいたおじさんが素早く身を翻し、あっという間に出入口のドアの鍵を閉め終えていた。唯一開いている窓の外では野党の集会に集まろうとしていた歩行者たちが先ほどまで進んでいた道を走って引き返していた。その方向を見て、警官隊のいる方向が分かった。また湿った音がした。催涙ガスが打ち出されると、弾を中心に人々がまるで蜘蛛の子を散らしたように逃げ出す。特に風下に位置しているときは大声で周囲に注意をしたりする。その様子が、私には民族や政治を中心に「分裂した社会」とまで言われるケニア社会の現状のように思えてならなかった。催涙ガスが打ち出されるたびに、確実に社会の、そして人々の何かが切り裂かれていった。

 

 外の騒音が収まってきたころ、いつも世話になっている店員が声をかけてきた。

「マサ、外に出たいの?今は出るべきじゃないわ。もう少ししたら、裏口から出ていくのがいいよ」

 それなりにこの店を使っているつもりだったが、裏口があることを初めて知った。奥まった部屋の隅にある古ぼけたドアをくぐると、アパートの大広間のようなところに出た。そこでは外の様子を心配した住民が険しい顔をしながら話し込んでいた。手近な人を捕まえて、自分の住んでいるアパートがここから近いが今通りを歩けると思うかと聞いた。彼の返事は、おそらく大丈夫だから、ちょうど今から外に出ようとしている住民たちと一緒に出ていくといいというものだった。私は彼に礼をいい、アパート住人と共に恐る恐る足を踏み出した。

 

 外は閑散としており、先ほどまで熱っぽく野党の集会に行こうとしていた若者たちも、暴力的な音をまき散らしていた警官隊も、誰も居なかった。ただいるのは自分と同じように、恐れをいだきつつも警戒して駆けていく通行人だけだった。いつもはあれほど混雑している道路に車は一つも通っていなかった。かわりに、そこらへんにある木の台車や枯れ木が炎と共に積み上げられていた。よく道を眺めてみると、通りに何か所か同じような炎と煙が見て取れた。おそらくは警官隊の進撃を阻もうとした、即席の足止めだろう。黒い煙が上がり、炎は奇妙なほど静かに燃えていた。道路の真ん中で炎が燃え盛っていても、誰もいなかったら騒ぎの一つにもなりはしないのだな、と当たり前のことが当たり前でないように感じられた。

 

 その後は何もなくアパートまで帰り、パソコンで政治集会の情報を集めることを始めた。しかし、耳だけは先ほどの催涙ガスの音を忘れられず、こんな時はどんなBGMを聞けばいいのだろうか、とありそうもない答えを探していた。

民族・階級・正義のロジック~選挙分析の基本軸~

注:長文注意。結論部だけでも可。

 

 先ず触れなければならないことは、前回記事で『誤報』としたケニア選挙委員会の人員入れ替えは結局不完全なまま終わり、結果として、残念ながら『誤報』ではなかったという点だ。私が前回記事で誤報とした情報が出る少し前まで、ケニアフリーランサーの間では人員入れ替えは結局行われないという確度の高い情報が出回っていた。その後各ケニア新聞社が報じた様に新しい人員刷新案が発表されたため、期待も含めて前回記事を『誤報』としたが、現在でもチェアマンであるチロバ氏を含む複数の職員が組織内で発言力のある立場から離れていない。同氏は先日IEBCが最高裁に提出した情報源に誤りがあったとする声明を発表するなど、政局に影響を与え続けている。8月の本選挙時に責任のある職員の委員会離脱を期待しつつ、今後の推移を見守りたい。

 

 さて、本記事の趣旨は一部の方に見られる与党勝利の予想(期待)には必ずしも根拠が伴っていない現状を踏まえて、再選挙を分析する上で基本的な3つのロジック(理論)を個別に、あるいは複合的に組み合わせた意思決定を批判検討するというものである。次回選挙結果は安全保障に直接的な影響を与えるにも関わらず、分析軸として必要となる観点が見落とされており、冷静な分析が行われているとはいえない。本記事では現代アフリカ政治研究を軸に、単純な民族と支持政党が一致するという想定が現状適用することができない点を指摘したい。可能な限り学問的概念を肌感覚に沿うものに翻訳した上で理論を展開することを試みたい。

 また、本記事は特定政党を支持するものではなく、あくまで現在流布されている選挙予想の問題を批判検討する場にしたいと望んでいる点は留意されたい。

 

 

〈民族のロジック〉

 先ずは民族の論理を見ていきたい。本記事では民族理論を簡単に以下の様に定義したい。「民族に属する集団は民族全体の利益を増大させ、同時にその利益の一部を当事者が享受することを期待し、同一民族の政治的リーダーを支持する」という想定をしよう。実際にケニアの様々な民族集団内の言説では、もし自民族の政治的リーダーが権力を得た時に、集団そのものが利益を享受できるという期待を語るものが多い。これは特に政治的リーダー→民族集団構成メンバーに同言説が伝達され、この言説を支持するものが実際に支援活動ないし投票といった形で同理論を支持する。この想定を拡大化、単純化した考えが「民族集団は同じ民族の政治的リーダーを支持する」というものである。

 こうした考えが多く支持されている時代は確かにあった。しかし、現代アフリカ政治研究ではこの考えは傍流に押しやられている。日本人の肌感覚に沿った例えを試みたい。日本はほぼ単一民族国家なので、ここでは民族を『出身地』に置き換えてみたい。ある程度規模の大きい都市の市長選挙を想定する。市民は様々な地域から流入してきているが、ある程度大まかに出身地は限定することができる。市長選挙を行う際に出身地AからリーダーA、出身地BからリーダーBが立候補した。あなたの出身地がAであった場合、出身地だけを見てリーダーAを支持するかどうか。リーダーAが市長に当選したとして、そこから利益を享受することをどれほど期待できるか。この理論が持つあまりに単純化した考えが持つ危険性がこの点にある。ケニアの社会状況に立ち戻ると、確かにケニアでは、不正やインフォーマルな繋がり、省庁や行政法人のポスト配分により利益を享受できる期待の割合は大きいかもしれない。しかし、その利益が一般市民にまで広く分配されてはいないことも事実であり、結果として多くの市民の間では「誰がリーダーになっても得られる利益は変わらない」という状況を否定することはできない。よって、こうした単純化した理論を支持することはできない。

 同理論を用いた与党勝利の想定としてよく聞かれるものは、「与党は多様な民族の政治的リーダーから幅広く支持されており、その支持者からも支持されているために再選挙時に勝利するだろう」というものである。この想定には少なくとも2つ問題点がある。まず、現在紙面を賑わせているように、与党支持を表明する政治的リーダーが増えているように「見える」点は事実かもしれない。しかし、実際には与野党を含めた支持政党における政治的リーダーの鞍替えはMCA(市議会のようなものとここでは理解してほしい)レベルから国会議員レベルまで頻繁に行われているにも関わらず、奇妙なことに大手新聞社が報じている内容は与党支持の情報で埋め尽くされており、野党支持に対する扱いはほとんど確認できていない。言い換えれば、報道が偏っていると言わざるをえない。次に、たとえ政治的リーダーが支持を表明したとしても、住民がその支持に反抗し、政党キャンペーンの受け入れを拒否する例が確認されている。つまり、民族を軸としたリーダーと支持住民という関係が、上記で論じたように単純に想定することができない。特筆すべきは後述するキシイ人の例だろう。結論としては、単純な民族理論を用いた選挙分析は住民の意思決定構造をあまりに単純化しており、適用に値しない。

〈階級のロジック〉

 本記事では階級理論を「個人が属する階級において、個人の得られる利益を増大あるいは保持することを優先して、支持する政党ないし政治的リーダーを決定する」ものと想定したい。民族理論と異なる点は、個人の利益を重視する点だろう。ここで階級とは経済的、政治的、社会的なピラミッド関係を基にした上下関係としたい。ケニアにおいて、階級社会は厳然と存在しており、階級内の意思決定から行動様式、服装や食事にいたるまで様々な点で異なっている。例えばアッパークラス(上位階級)では週末に高級ショッピングモールに行き、食事とショッピング、あるいはスポーツなどをして余暇を楽しむかもしれない。ミドルクラス(中位階級)では近場のチェーンスーパーマーケットに行き、たまの贅沢におやつとソーダ(炭酸飲料)を買うことを楽しみにしているかもしれない。ロウワークラス(下位階級)では馴染みのローカルレストランでチャイ(お茶)を嗜み、仲間と共に冗談と社会へのヤジを飛ばすことが唯一の娯楽かもしれない。

 階級理論に沿えば、上位階級に近ければ近いほど与党を支持し、下位階級に近ければ近いほど野党を支持する傾向があるといえる。これを既得権益の関係から説明したい。ここでいう上位階級者は、たとえば国会議員、官庁の重役ポストに就いているもの、あるいは有力ビジネスマンが代表されるだろう。上位階級者は既に利益を享受しているものたちであり、現在の経済・政治・社会構造の変革を望まない。何故ならば変革が生じた際に、個人の利益を失ってしまう可能性に曝されるためである。反対に、下位階級者は現在利益を享受していない立場の者たちであり、既存に利益分配構造を変革するために野党に期待する。階級理論でいえば、民族という枠組みを飛び越えて、個人の利益が優先される。そのため、たとえば違う民族の政党であっても、上位階級であれば与党を支持する。下位階級では逆である。また、上位階級者が期待する点が主にポスト配分の保持や増大であるのに対して、下位階級者が期待することが政策である点も留意したい。ここでいうポスト配分は明確な役職に加えて現在個人を取り巻く政治経済的な人脈も含めたい。ここで重要な点は双方ともに「これからの期待」を基に意思決定をするという点である。つまり、いくら公約として掲げていても、これまで実施されなかったポスト配分や政策を意思決定者は期待することはあまり想定できない。そして、それぞれの階級に属する者が期待するものが違う理由は、それぞれの階級で個人の利益を増大ないし保持することに対して期待できるものが異なるためである。民族理論とは異なり、それぞれの階級者にとって直接的な利益を見込める期待が存在する。

 いくつかの研究では、2007年前後を境にして、ケニアでは民族集団よりも階級が政治行動において優先されているという現象が伝えられている。主な対象となっている民族集団はキクユ人であった。キクユ人内での階級分化は以前より指摘されており、近年では特に民族集団内で持つものと持たざる者が顕著となっている。こうした持たざる者たちの間でゲームのルールを変化させるために下位階級者に有利な政策を掲げていた野党を支持する動きや投票を含む支持活動に参加しなくなった者が現れてきたというのである。

 与党勝利の想定に適用するならば、現在ケニアでは格差が大きな問題となっている。マクロ経済は確かに成長している。しかし、自らの生活は変わらないだけではなく、物価や生活のコスト上昇でむしろ困窮している。これらは事実であり、こうした声が多く聞かれるのが現状であろう。昨年よりみられる多発するストライキや今年の干ばつによるメイズ不足とそれに対する政府の稚拙な対応など、与党に対する不満はすでに目に見える形で表出されている(そして、仮に野党が政権を奪取したとして、こうした現状が容易に変わるとは想定できない点も付け加えたい)。具体的な事例としてはナイロビ市長選挙を挙げたい。与党に属するマイク・ソンコ氏は与野党問わず、下位階級者からの支持を得て、ナイロビ市長に当選を果たした。筆者と弊社の調査チームでは、野党支持者にも関わらずソンコ氏に投票したという住民を多く確認している。これは階級理論の典型例として認識してもいい事例といえる。これを大統領選に適用するならば、比較的経済成長路線によるウフル現大統領に対し、公平な資源分配路線の色が強いと見られているライラ氏という対立構造があり、人口比率的に圧倒的多数な下位階級者あるいは下位中位階級者が現状のルールを変更するために、野党を支持するということは十分に考慮しなければならないシナリオである。

 

〈正義のロジック〉

 正義理論とはつまり正統化理論のことである。本記事では正義理論を「個人は属する集団の言説を参考にしつつ、個人の良識に従って社会的に正しいと思える選択を行う」ものと想定したい。同理論は現在のアフリカ政治研究ではあまり研究の主体とはなっていないことを認めつつ、10月の再選挙時に極めて重要な意味合いを持つため、簡単に触れていきたい。

 正義理論が上記2つの理論と決定的に違う点は、意思決定において利益ではなく、正義(社会的に正しいと思えるもの)を重視するという点である。人間の意思決定は、必ずしも利益だけでは計り知れないことには異論の余地はないだろう。たとえば主流派経済学が想定する合理的経済人(個人が自らの利益を最優先に追求するために最適で合理的な選択を行うことを想定している人物像)が政治学の分野でも適用されたことで、現在論争が続いている。特に政治学研究者からの反論が顕著であるが、これには人間というものが必ずしも個人の利益を最優先に意思決定を行うものではないという実例が存在しているためである。人間は個人の利益に加えて、集団の利益、あるいは自らとは関係のない他者のために意思決定を行うことがある。簡単な例であれば、仕事帰りの電車で年配や妊婦の方が席を探している状況を想像して欲しい。ここで合理的経済人ならば自らの利益を優先して、席を譲らずにそのまま休息を取り続けることが選択されるかもしれない。しかし、そうした場面であえて席を譲るという選択も現実を生きる我々は行うことがある。なぜならば、個人の利益よりも社会的に正しく望まれている選択を理解し、自らの利益を放棄することができるからである。ある人にとってはここに人間性というものを見出すかもしれない。

 ケニア人においても正義の実践は日常の中から簡単に見出すことができるが、筆者は特に2008年前後のケニア市民の行動を挙げたい。これまで何度も指摘してきたように、ケニアにおいて2007年末から2008年初頭にかけて、史上最大規模ともいえる暴動が発生した。ここでは民族集団(とおもえるもの)同士の衝突により、殺傷事件や人道に対する罪が頻発した。その残酷な事件の裏では多くの勇気あるケニア人の行動が報告されている。たとえば民族集団Aに属するものが民族集団Bに属する隣人に対して、暴動が計画されているため事前に避難を喚起したという事例は数多く報告されている。また、暴動に巻き込まれた見ず知らずの他民族集団のもののために仲裁を試み、我が身を呈して守りきろうとした事例もある。暴動後のケニア社会では暴動発生の反省から、真剣にケニアの平和を望み、同じ過ちを繰り返さないために各地で講演や平和教育が盛んに行われてきた。筆者はケニア人の平和に対する真摯な感情が、少なくとも以前よりは醸成されてきていることを感じている。

 再選挙に正義理論を適用するならば、現在与野党で論争の中心となっている2点を挙げたい。一つは与党による選挙法改正の試みである。与党は8月の選挙が無効となった責任の中心を選挙管理委員会の手続きとそれに伴う選挙法にあると考えており、改正案を推し進めようとしている。最高裁の判決を受け入れながらも選挙キャンペーンでは最高裁裁判長のマラガ氏を中心に激しい非難を繰り返しており、諸外国(特に欧米諸国)から法の遵守を維持すべきという警告があるにも関わらず、選挙法改正の正統性を主張している。この点では自らの属する集団の言説に多大な影響を受けるため、支持者は民族毎の主張が分かれやすい状況になっている。何故ならば、ケニアにおいて言語、コミュニティ内で流布される言説は大きく偏っており、特にメディアを所有していたり影響力を持つ政治的リーダーと同じ民族の市民は直接的な影響を避けられないためである。ここは民族理論とも対比した考察が必要になるだろう。

 2つ目は野党による選挙管理委員会メンバーの辞職と選挙備品を提供する会社の変更要求である。野党は月の選挙が無効となった責任の中心を選挙管理委員会の不正、そして選挙備品の不適切な使用が原因と主張している。8月の選挙を振り返れば、投票終了時から既に不正と思われる不適切な動きは報告されていた。その後次々と明らかになった選挙用紙の不適切な管理や投票箱の違法な開放など、メディアを通じて選挙実施の問題が報じられてきた。特に選挙のオンラインシステムはやり玉に上がっており、野党は何度もシステムサーバーにハッキングされた証拠があると主張している。これらの不正を繰り返さないためにも、メンバーの辞職と備品を提供した会社の変更は必要というのが野党の考えだ。

 ここで(キシイに住む)キシイ人をとりまく特徴的な事例を挙げたい。キシイ人は元々与党の支持者が多数を占めると思われていた民族だった。しかし、8月の選挙時には野党党首のライラ氏が55%を獲得したのに対し、現大統領ウフル氏は43%に留まった。投票結果だけをみれば野党支持者がやや多い地域といえるが与党支持者も相当数存在する。こうした状況が変動したのは最高裁判決に対し、与党が非難を繰り返し始めた頃だ。各新聞社はほとんど報じてはいないが、KTNによると最高裁裁判長のマラガ氏を名指しで批判したことで、キシイ人の間では与党離れが起こっているというのである。裁判長のマラガ氏はキシイ人であり、そのマラガ氏批判がキシイ人の間で与党に対する抵抗を生じさせた。与野党支持者が混在する地域において、上記の二つの主張のどちらを支持するかも半々程度になる可能性はあったはずである。しかし、同地域に住むキシイ人はマラガ氏とマラガ氏の下した判決を支持し、与党支持から離れる動きが進んでいるのである。マラガ氏はアフリカで初となる選挙の無効という判決を下した裁判官として、欧米諸国から賞賛された。世銀はマラガ氏に約1.6億シリングもの法律書を進呈した。勇気のいる決断であったといえる。筆者はできるだけ偏りがでないように同地域に住むキシイ人5人に確認したところ、彼らはこの主張を支持していた。サンプル数が少ないため大勢の動きを見極める情報にはなり得ないが、参考程度にはなるだろう。正義理論においては「誰が、何を話してるか」、そしてそれによって「社会にとって正しく望まれている判断は何か」が鍵となるが、キシイ人の事例はそれを示す好例といえる。

 

〈結論〉

 かなり詳細を飛ばして論理展開をした点は反省しているが、投票の意思決定に関して様々な判断軸があるという点を理解していただけたら幸いである。現在のケニアの状況を考えた上でのポイントをまとめたい。

 

1. 政党と同じ民族=その政党の支持者という構造は単純には成り立たない

2. 個人が置かれている状況によって、どの軸を優先するかは異なる

3. 利益のみならず正義(正統性)が人の意思決定には大きく関わる

4. 既存の現地政治報道には偏りと限界があるため、必ずしも現状を捉えていない

 

 投票行動と投票数だけを捉えるならば、人々の言説の中にその答えがあることは言うまでもない。その主な言説とは、民族の言説、階級の言説、(主に民族内の)正義の言説である。これらの言説は相互に影響しあい、刻々と変化する。そして、それぞれの境界を意図的に偏り無く渡り歩くことなくして、これらの言説を理解することは困難である。先のアメリカ大統領選挙では大方の予想に反してトランプ氏が当選したが、その時指摘されていたことはマスメディアがサイレント・マジョリティの声をすくい上げていなかったことだった。ケニアにおけるサイレント・マジョリティは誰で、彼らの意見は何か。この点について考察を深めれば、結論は複数はないはずである。

ゲームのルール

 本文に誤情報がありました。十分に情報を確認していなかった筆者の責任です。本稿により誤解された方、および無責任な批判の対象となった選挙管理委員会に謝罪致します。申し訳ございませんでした。訂正すべき部分にチェックを入れたので確認ください。


某国選挙に関する現状認識を述べる。以下便宜上、8月に行われた選挙を本選挙、新たに行われる再選挙とする。本稿の目的は、再選挙に伴う準備対応と現状認識にいささかの混乱と困惑が見られるため、再選挙を理解する上での争点の明確化、そして与野党陣営の選挙戦略を概観した上で、安全保障に資する情報を提供することである。

 

 先ず始めに確認しなければならない点は、与党は可能な限り早く、そして野党は可能な限り遅く選挙を行いたいという動機に対する理解である。これは言い換えれば、与党は選挙管理委員会及び選挙システムを変更しない(させない)内に選挙を行うこと、そして野党はそれらを変更した後に選挙を行うことを目指しているということである。本選挙では選挙管理委員会が主体となって選挙を執り行ったが、結果として透明性に欠けた選挙となった。具体的には、不正投票や投票センターから集計センター間での理解しがたい数字の変更、投票確認作業手続きの不備、そして選挙集計プログラムに対するハッキングといった疑惑が指摘され、これらの理由から異議を受けた最高裁判決により、本選挙の結果は無効となった。与党党首は最高裁に対して再選挙を行うことによる時間と金の無駄を批判しているが、これは的を得ていない。そもそも選挙管理委員会による適切な選挙運営が実行されたならば、新たなコストがかかる必要性は生じなかったためである。同時に野党党首は、結果として投票という国民の声を踏みにじることとなった選挙管理委員会の責任と改善を要求している。

 

 「以下、誤情報部分」→責任追及に対する対応として選挙管理委員会は人材の刷新を発表したが、これは現状中身の伴っていない対策となっている。透明性に欠けた選挙を行った責任者が選挙管理チームに残ったまま、新たに人材を加入させたのみに留まっているためである。これは小手先の改革であると言わざるを得ず、国民の不満や不安を解消させる対策とは程遠い。原因を追求し、抜本的な対策を行うためには、失敗を犯した責任者を選挙管理チームから除外すべきだろう。←「以上、誤情報部分」また、論争になりやすいICT担当官には第三者による外部の監視チームを用いるという方法もある。「以下、誤情報部分」→現状を考えれば選挙失敗に対する対策は進んでおらず、仮に再選挙が行われたとしても同様の失敗を繰り返す可能性は依然として高いと言わざるを得ない。この点に関しては今後共論争のやり玉に挙げられるだろう。←「以上、誤情報部分」

 

 次に確認しなければならない点は、与野党の選挙戦略である。野党の選挙戦略は「透明性の高い選挙を実現することで世論の過半数に支持されている野党の勝利を目指す」というものである。これは2008年選挙、2013年選挙と疑惑の多かった選挙の際の野党の態度をみれば理解が容易である。野党はそれらの選挙で自らを実質的な勝者とみなしており、本選挙が始まる以前より一貫して不正排除をテーマとした戦略を進めてきた。何故ならこの点が本選挙、再選挙における野党による最大のテーマであり、この問題に十分に対処できなかったため、2008年と2013年に敗北を喫したためである。選挙管理委員会責任者の交代、野党独自の集計センターの開設などがこれにあたる。これらの戦略が変更されることはなく、再選挙においても透明性を確保するための戦略を推し進めるだろう。だからといって野党自らが不正を犯さないという保証がない点には留意しなければならない。

 

 対する与党の選挙戦略については、SNSやブログで述べるには限界がある。与党の選択肢は数多く残されてはいない。実現可能且つ効果的な戦略はおそろく2つだろう。一つは本選挙と同様の戦略、即ち選挙前に多くのコストをかける、組織的な戦略である。もう一方の戦略は選挙そのものを壊す戦略であり、それはケニアの政治史上既に発生している。どちらか一方、あるいは併用しての再選挙となるだろう。与党がどのような戦略を取るかは未だ判明していないが、それは住民間の言説の中で確実に顔を出すことになる。

 

 いずれにせよ、安全保障の観点からいえば、住民レベル、草の根レベルでの情報収集を幅広く行うことが対象地域内における安全確保に重大な意味をもたらす。

 

 様々な立場に様々な方がおられるし、立場や所属コミュニティによって難易度は変化するかもしれない。それでも私は本選挙及び再選挙の分析は比較的容易であると指摘する。指摘し続ける。争点と問題点が顕在化しており、適切な分析の枠組みを当てはめやすいためである。これは社会にとっては決して良いことではなく、顕在化は同時に深刻化を意味している。

 

 上述した問題点に対しても、おそらく今月内に答合わせができる状況となるだろう。分析のポイントも既に述べた。私が期待しているのは、あからさまにむき出しとなっているこれら問題に対して、何らかの対処策が施されることである。同じことを繰り返すべきではない。


訂正部分注記。


選挙管理委員会内の人材配置を行い、本選挙時の責任者は再選挙において選挙管理チームに加わらず、新たな人選からなるチームで選挙を実施します。チェアマンを除く。


組織内での人材再配置がどこまで透明性のある選挙に貢献するかについて検討が必要ですが、新たなチームに期待しています。


情報確認を怠り、いらぬ誤解と批判を招きかねない情報を公開したことを猛省します。

「私はこの国に疲れてしまったよ」と、彼は言った。

 穏やかな日だった。この頃続いた雨が嘘の様に去り、頭上には爽やかな青空が広がっていた。オフィスが面する路地では子供が石を蹴飛ばして遊び、通り向かいのアパートでは女性が洗濯物を干していた。溜まった家事を一気にこなすのにはもってこいな、そんな穏やかな日だった。

 

 休憩がてらに庭で水を飲んでいると、来訪者が現れた。私の友人だった。大手のメディアで長年ジャーナリストを続けてきて、これまで歴代の大統領を含む名だたる政治家とも対談を行ってきた人物だ。今は独立し、会社を経営している。

 

 この頃顔を合わせることもなかったので、積もる話はいくらでもあった。その中で、最近紙面を賑わす某氏の変死事件に触れたのは当たり前のことだったかもしれない。その事件に関して様々な憶測が乱れ飛び、紙面やSNSだけではなく、日常生活の中でも密かに議論が交わされていた。

 

 状況だけを見れば、誰が何のためにその事件を引き起こしたのか、嫌になるほどあからさまであった。しかし、多くのメディアが取り上げたにも関わらず、肝心の情報については綺麗に空白で埋められていた。

 

 少し話が進んだとき、彼は唐突に切り出した。変死した某氏は、彼の親戚らしい。とても優秀で海外にも留学経験があり、この国の将来を支える人物と周囲から期待を受けていた。そんな人物が突然、殺されてしまったのだ。ただ殺されたのではない。拷問された上で殺されたのだ。

 

「状況を見れば、誰が何のためにやったのかなんて分かりきっていることじゃないか。なぜメディアは報じないのか。それも分かりきっていることじゃないか。報道できないのだ。既に現場に圧力がかかっているからだ。今新聞を読んでも何も意味がない。それが今のこの国の現状なんだ」

 

 いつも陽気な彼の表情が、その時は曇っていた。そんな表情を見るのは初めてだった。私は彼の悲しみに歪む顔を見たくはなかったが、きっと私も同じ顔をしていたのかもしれない。

 

 彼の顔を見て言葉を失い、少しだけ沈黙が続いた。どこかに出口を求めて彷徨うかの様に、彼はぽつりと呟いた。

「私はこの国に疲れてしまったよ。疲れた。本当に疲れたよ。」

 

 言葉通り、何もかもに疲れ切ったような表情をして、彼はそう言った。頭の中で彼の言葉を反芻した。これまでも、おそらくこれからも、私はそのような台詞を人生で吐くことは無いだろう。その事実に気づいたとき、私は腹の底にある冷たい鉛の感触を自覚した。

 

 再び沈黙が続いたあと、彼はビジネスのことで調べ物があるといってオフィスに戻っていった。その姿は、何とか会社のことで頭を埋め尽くし、認めたくはない現実から逃れようとしている様にも見えた。

 

 私は何をする気にもなれず、一人屋外に取り残された。路地ではまだ子供が石を蹴って遊んでいるだろう。通り向かいのアパートでは既に洗濯物を干し終え、一息ついていることだろう。頭上には爽やかな青空が遠々と続いている。

 

 穏やかな日だった。どうしようもなく穏やかな日のことだった。

 

 そのことが私の眉間に皺を刻ませ、歯を食いしばらせた。