たとえ言葉が風だとしても~開発的ビジネス論序論~

開発とビジネスの架橋を目指した新たなシステムを議論・検討・批判する場です。

人生で一番重い握手の話

 私はケニアで会社を立ち上げ、事業を開始する直前の立場です。事業の中身はWEBメディアと調査(家計&意識調査)を行う予定で、既に取材や調査を精力的に行っており、これから情報を発信していく段階にあります。

 この事業が今後ケニアにとって、日本にとって、世界にとって必要なものだという確信があります。この事業をやらなければならないという決意と覚悟があります。しかし、「なんでそのビジネスをやろうとしているの?」という当たり前の疑問に対して、上手く伝えることができていないという想いもありました。正直、色々な思いがありすぎて、上手く言葉にできないのです。だから、少しだけ自分語りをさせて欲しいと思い、この記事を書くことにしました。

 

 私は元々大学院で開発研究を行っており、専門領域はケニアにおける紛争や市民暴力でした。大学院時代は2007/8年に起こったPEV(Post-Election violence、選挙後暴力)と呼べれる大規模な暴動(国内紛争)の調査のためケニアで現地調査を行い、大学院と大学の合同調査チームの一員として2013年に暴力の被害者側を、そして翌年に個人として加害者側(とされている)の村の全村調査を行いました。この研究成果は指導教官との共著論文として、書籍にも掲載されました。これは、2013年の合同調査終了後、加害者側村の調査を行うための事前調査を行っていた時の話です。

 

 

〈平和な村の現状、忘れざる歴史〉

 チームのメンバーが帰国する中、私は二人でケニアの農村を歩いていた。傍らにはリサーチパートナーの男がいる。ここら辺で活動しているコミュニティワーカーで、かなりそそっかしい男だが、実直で明るく、頼りになる男だ。

 乾いた空気が喉を刺激する中、私は空を仰ぎ見た。よく晴れており、雲は少なかった。この地域の天候は正直だが変化が激しく、雲が出始めると途端に気温が下がり、大量の雨が降り出し、時には雹が降ることもあった。一度雨が降り出すと舗装されていない道路は途端にぬかるみ、まるで底なし沼のようになることもある。私達はゴム長靴をぺったんぺったんと鳴らし、ひび割れた地面を踏みしめ、汗を流しながら一軒一軒民家を歩き回った。

 歩けど歩けど、なんの変哲もない、ケニアの牧歌的な農村が続く。たまに頭上でひばりのような小鳥が鳴き、道行く人は日本から来た異邦人に優しく挨拶をしてくれ、子供たちは「チャイニーズ(中国人)!ハバリ(調子はどう)!?」と、アジアから来た珍客に声をかけてくる。そして、だるまさんが転んだでも遊んでいるかの様に私の後をついてきて、私が振り向くとキャッキャッと逃げ出していった。実際に現場を歩いても尚、いや、実際に現場を歩いたからこそ、五年前にこの地域で「ケニア史上最悪の悲劇」とまで形容された凄惨な事件が起こったとは信じられなかった。しかし、調査を進めるに連れて、ここで悲劇が起きたことを思い知らされるようになるまで、さほど時間はかからなかった。

 

〈消えぬPEVの記憶〉

 調査は難航を極めた。今回の調査は、翌年に予定する対象村Xの調査が果たして可能かどうかを見極めるため、周辺の農村を回って情報を集めるためのものだった。近年の紛争研究ではミクロ家計調査を基にした政治的、経済的、そして社会的な要素を盛り込んだ調査手法が開発されており、同時にその難しさが論点となっていた。

 これは少し考えれば分かることで、紛争発生地を練り歩き、情勢が不安定な中で被害者や加害者に対して聞き取り調査を行うという、調査実行者にまで危険が及ぶ可能性が高い手法だからだ。しかも、定性的な聞き取り調査ならば明らかに危険な者は除外して調査を勧めることができるものの、定量調査では相手が誰であっても、たとえばこちらに明らかな敵意や不信があったとしても、対象がその村の住民である限りは調査対象者から除外することはできない。予定する調査は被害者側ではなく加害者側の村で、あまり前例のないことだった。対象村Xは暴動時の加害者が多く居住しているという村だった。

 こうした状況下で周辺農村の住民に対する調査を進めたが、厄介事や危険に巻き込まれたくはない村民が多く、あるいは調査そのものに対する高い警戒心によって、口を閉ざす者も少なくはなかった。ケニアでは一概に調査に対する警戒心が高い、といっていいだろう。これは多くの場合政府や政府よりの公的機関に対する恐れが強いため関わりを持ちたがらず、能動的に調査に協力するものが少ないからだといえる。たとえ調査実施者が政府関係者ではなくても、調査アレルギーとでもいうものが強く影響している。

 私とパートナーは住民の不安を和らげ、こちらの目的を明らかにし、調査に協力してくれるように辛抱強く歩き続けた。日本人とケニア人のペアに対する不信や疑念は深かったが、それでも住民が信頼してくれるまで歩き続けることを決心していた。流した汗の分だけ信頼を得られるのではないかと、パートナーと何度も話しあっていたためだ。その結果、PEVという忘れがたい恐怖をその身に刻みながらも次第に多くの住民が口を開き、助言をしてくれるようになった。彼らに対するは感謝を今でも忘れることはできない。

 

〈ある男の独白〉

 いつもの様に農村を歩いていたとき、私達はいつも遠巻きに眺めていた小広い原っぱのようなところに、家が一軒あるのに気がついた。入り口は小さく、枯れ木と草のバリケードに覆われていたため、これまで見落としてしまっていたようである。よくよく見ると、その原っぱはよく手入れがされていて、端には目立たぬように車が二台止めてあった。周辺の農村で車を所有しているものは数えるほどであり、明らかに中間層以上の世帯であることが分かった。

 調査に協力してもらおうと入り口から家の方に向かって声をかけたが、返事はなかった。さてどうしょうか、少し休憩でもしようかとパートナーと話していると、中から怪訝な顔をした男性が歩いてくるのが見えた。

「お前たち、ここで何をしている」

「私達は学術的な調査を行うため、この一帯を歩いている者です。これまで村長を含め、多くの方に協力していただきました。ぜひ貴方にも話を聞かせていただけないでしょうか」

 私は質問表を片手に、汗をかきながら必死に訴えた。男性の表情が晴れることはなかったし調査に協力するとも答えてくれなかったが、あまりに疲労困憊な私達を見て、とりあえずお茶でも飲めと庭に招いてくれた。

 どうやら私達が原っぱだと思っていたところは、彼の家の庭であるようだった。周辺の農村を歩き回ったが、ここまで広い土地を所有している世帯はなかった。私達は椅子に座りながら、彼が持ってきたお茶を飲みながら一休みをした。本題に入る前に、先ずは世間話から入った。いきなり調査の説明をしても、調査に警戒心をもっている人を驚かせ、より警戒されるだけだからだ。この前雹が降った時は背中にバチバチあたり痣(あざ)が消えなかったとか、履きっぱなしのゴム長靴の中の臭いがひどいことになっているだとか、実家の祖父母は農家で玉ねぎとメイズを作っているだとか、くだらない話も交えながら男性の反応を見てみた。

 男性はまるで何かを拒んでいるかのように、表情を変えなかった。これまで多くの住民に対して聞き取りを行っていたが、彼の様な反応は初めてであった。

 世間話にも限界がきたため、少しずつ調査のことを話し始めた。この周辺の地域で何があったかは知っている。それが今でも忘れられないことだということも。外部者がこんなことを聞くことはとても失礼なことなのかもしれない。それでも、話を聞かせてはくれないだろうか。無理にとは言わない。ただ、現状を伝えて、理解してくれる人を増やして、少しでも良い方向に変えることができたら。そんなことを彼に伝えた記憶がある。

 彼の表情は変わらなかった。既に数十分が経過している。聞き取りがスムーズにいけば、一世帯分の調査が終わっている頃だ。

 パートナーが小声で話しかけてきた。

「マサ、もう別の世帯の調査に切り替えた方がいいかもしれない。彼は話す気がないようだし、ここで時間を使いすぎたら今日の分の調査が終わらない」

 パートナーの言い分はもっともだった。無理に話を聞こうとしては、私達にとっても彼にとっても負担になるだけだ。聞き取り相手の心情を慮って、決して話すことを強制しないというのが、私とパートナーの約束でもあった。しかし、私はこう答えた。

「君の言うとおりだ。しかし、彼には何か違うものを感じる。話そうとしていないかもしれないが、何か迷っている様にも見える。こういう相手だからこそ、話を聞かなければならないと思うんだ。俺は彼の話が聞きたい。ゆっくりやろう」

 これまでバックパックを担いで、いろいろな国に周り、時には軍事政権下のミャンマーでタブーとされている話題にまで踏み込み、多くの話を聞いてきた。本当に彼が話したがらないなら、私にはそれが分かるはずだ。しかし、目の前にいる彼は、話そうとはしないが、どういうわけか話したがっているようにも見える。私は彼が口を開くまで待ってみようと思った。ゆっくりとお茶を飲みながら、彼が反応しないにも関わらず、たまに思い出したかのように話しかけてみた。今日はいい天気だな。ここは緑も多いし、美しい村だ。すれ違う人も親切に挨拶をしてくれる。子供がからかってくるのはちょっとまいるなあ。ここで「あんなこと」があったなんて、やっぱり自分には信じられないよ。

 それは独り言に近いものだった。

 そんなことを数十分続けていたら、男性が小さい声でぽつりと囁いた。それは唐突だったが、自分には妙に自然に思えた。一度口を開いた彼は、小さい声ながら、しかし途切れることなく話し始めた。彼は私というより、自分自身に話しかけているようだった。彼の言葉もまた、独り言に近いものだった。

「私はここでは少数派の民族なんだ。少数派の民族がどういう気持でここで生きているか、分かるだろうか。私は車も持っているし、大きな土地も持っている。とても目立つんだ。少数派の民族の人間がどういう気持でここで生きているか、分かるだろうか。とても怖いんだ。周囲の人が襲ってくるかもしれない。ただでさえあんなことがあったのに。ここで生きることは私みたいな人間にとって、とても難しいことなんだよ」

 彼の独り言をただ黙って聞いていた。彼が話す度に、彼が何故あんな表情をしていたか、話し出せなかったのか、少しずつ理解しはじめた。彼は長年、この地でそうした不安や恐怖を抱えながら生きていたのだろう。周辺の村を調査していて、この一帯が決して裕福ではなく、むしろ貧しい地域なことは分かっていた。さらに、悲劇が起こった村からほど近く、この村の中でも暴力が猛威をふるっていた。その不安や恐怖は、PEVが終わって五年が経っても決して薄まることはなかったのだ。彼は日常の中でそうした恐怖や不安と戦ってきたのだろう。彼が何故話すことを躊躇したか、話し出せなかったかが、胸が痛くなるほど伝わってきた。同時に、私は無理に彼の話を聞こうとしたことを後悔した。日本人の私には決して理解し切れないのではないかと思えるほど、ここでは民族と暴力が深く結びついているようだった。

 

〈人生で一番重い握手〉

 彼の話が終わり、私達はまた別の世帯へ移動しようとしていた。

「ありがとう。ただただ、感謝している。貴方の話をきけてよかった。私達も、貴方から聞いた話を忘れず、もっと多くの人の想いに接していきたい」

 彼は何も答えなかったが、黙って私の目を見つめながらを握手をした。重い、とても重い握手だった。

 私も彼の目をじっと見つめたまま、少しの間、動くことができなくなった。彼の顔には、これまでの人生に対する疲れや、やりきれなさの様なものが顔を覗かせていた。それに反して、彼の目は何かを強烈に訴えているかのようだった。私達は無言で手を繋ぎ続け、その間一言も発することはなかった。しかし、彼の目は私に向かって、確かに叫び続けていた。

 頼む、と。

 彼と別れ、私達は次の世帯へ向かって、道を歩いていた。その間、私は彼の最後の言葉について考え続けていた。正直、彼が私に向かって何を伝えたかったのか、何を頼まれたのかは今でも分からない。それでも、最後の言葉が頭からこびりついて離れることはできなかった。

 私はとうとう歩くことができなくなり、後ろを振り返り、彼の家がある方を見つめた。この先、彼の言葉は伝わるのだろうか。だとしたら、一体誰が伝えるのだろうか。普通の調査者ならば、聞き取りを辞めてすぐに次の世帯へ移ってしまうのではないか。一体彼は何故私に打ち明けてくれたのだろうか。彼の叫びが、誰かに届くことはあるのだろうか。

 私はきっとその時、立ち止まってしまったのだと思う。立ち止まったまま、今でもそこから一歩も動けずにいるのだと思う。普通ならば途上国で見たことなど、日本で過ごす日常の中に消えてしまえばいいのかもしれない。自然に消えていくことなのかもしれない。しかし私にはそれができず、今でもあの日にした握手の重みが右手に残っている。

 彼の言葉を伝えるべきだ。彼の言葉を伝えなければならない。そうした思いが今でも胸の中にある。ただ、知ってほしい。こういう現状があることを。その気持を変えることができなかった。

 PEVが終わってから10年、彼の叫びを聞いてから4年が経つ。昨今のアフリカ熱の高まりは、飛ぶ鳥を落とす勢いである。ケニアではTICAD6が終わり、サブサハラ・アフリカの中でも最も有望な投資先として注目を集めている。それらの言説を一概に否定しようとは思わない。しかし私はこの国が抱える現状を、より冷静に、より深くしらなければ、この先この国で大きな問題が起こるのではないかと思っている。彼の抱えている問題は、別に彼だけの特別な問題ではなく、多くのケニア人が抱える共通した問題だからである。そうした問題は研究や報道で伝えられることはあるが、ケニアを取り巻く熱狂の中に消えてしまっている。

 あの日にした握手の重みが今も右手に残っている。冷静に、深く、人々の思いによりそった声を、そのまま届けたい。それがあの日から今も変わらない、私の願いだ。

ナイロビスーパーマーケットありすぎやろ問題

 ナイロビの街中を歩いていると、チェーンスーパーマーケットがよく目立つ。近頃借金や給料遅配や店舗撤退が何かと話題のスーパーマーケットだが、現場を歩いていると「そりゃそうなるやろ」と思う場面もちらほら。

 

 たとえばこんな感じである。通りの向かいにスーパーマーケットが向かい合うのはのは序の口。歩いて2~3分のところにあるのもまだまだ。凄い例になると有力スーパーマーケットが仲良く隣り合う形で店舗展開がされている場合もある。若干の差はあれど、取り扱う商品に目立った違いはない。価格も同様である。

 

 はっきりと差別化できていないにも関わらず隣り合うこのような店舗展開をしていれば、当然採算をとることは難しくなる。チェーンスーパーマーケット業界全体を見ても供給過剰な状況といっていいだろう。

 

 また、新興中間層地域では、ショッピングモール内にスーパーマーケットを開いたものの、すぐに撤退する例も目立つ。ところによっては休日は賑わいをみせるショッピングモールもあるが、概して空き店舗が目立ち、ひどいところでは休日なのにゴーストタウンならぬゴーストモールと化している。

 

 こうした出店と退店を繰り返しながら、スピーディーな経営を目指しているという説明も聞いたことはある。しかしその中身はどうもイケイケとは限らないようである。

日本の「一人あたり国民総所得」は右肩上がり~アフリカ経済指標の誤解と曲解~

〈過熱するアフリカ報道〉

 この頃はアフリカのマクロ経済を巡り、経営コンサルタントエコノミストなど、様々なアクターが積極的に情報発信をしている。週刊誌にもアフリカ経済の情報が取り上げられることが多くなり、開発研究に関わっている筆者としてはより開かれた議論が展開されることを望んでいる。

 しかし、中にはより慎重に問題を考えた方が良い事例も少なくない。その一つがアフリカにおける中間層論である。たとえば、このような主張が散見される。「アフリカは一人あたり所得が向上しており、中間層の人口増加も進み、市場としての存在感が増している」。この説明は多くの問題がある。結論から述べたい。

 

1. 一人あたり所得の増加が、そのまま中間層人口の増加に繋がる訳ではない

2. 中間層人口の絶対数は伸びているものの、人口比率でみた中間層割合の伸びは確認されていない

3. 経済指標を正しく理解しなければ、投資判断や事業判断に誤りが生じる可能性が高い

 それでは、一つずつ説明をしていきたい。

 

〈マクロ経済指標と平均年収~日本の一人あたりGNIを参考に~〉

 おそらく、週刊誌などで散見される上記の説明をする者の多くが一人あたりGNI(国民総所得)を参照して、主張を展開していると思われる。GNIの分かりやすい説明はSMBC日興証券の説明を参照されたい。

GNI│初めてでもわかりやすい用語集│SMBC日興証券

 さて、マクロ経済指標を理解するコツの一つとして、最も分かりやすい例、つまり自国の数字を見てみる方法がある。世界銀行のデータベースを見てみると、日本の一人あたりGNI(購買力平価)はここ25年ほど、順調に右肩あがりであることが分かる。ちなみに、アフリカ諸国(サブサハラ)も順調に右肩あがりである。上が日本、下がアフリカ諸国のデータである。

GNI per capita, PPP (current international $) | Data

GNI per capita, PPP (current international $) | Data

 この数字を見て驚かれた方も相当数いるのではないか。何故なら、近年の日本の経済状況は非正規雇用者の増加、平均年収(厳密には給与所得者、つまり雇われて給料を貰う者≒サラリーマンが対象)の継続的低下などあまり景気の良い話は聞かないからだ。国税庁民間給与実態統計調査を参照すると2005年を基準にして、ここ10年で平均給与は年間437万円から420万円に減少している。

http://www.nta.go.jp/kohyo/tokei/kokuzeicho/minkan2015/pdf/001.pdf

 統計局の調査によれば、2016年の日本の総労働人口は6648万人で、その内雇用者は5729万人である。つまり、国民の大部分がサラリーマンの日本で平均年収が下がり、一人あたりGNIは上がるという現象が起こっている。

http://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/nen/ft/pdf/index1.pdf

 一人あたりGNIを見て、「日本は一人あたり所得が向上しており、中間層の人口増加も進み、市場としての存在感が増している」と言われてみると、違和感を感じないだろうか。なぜこのような現象が起こっているのかというと、極めて単純である。一人あたりGNIという指標が、国民が実際に受け取る所得や中間層を表す数字として意味をなさないからである。

 

〈正しいマクロ経済指標の理解とは〉

 そもそもGNIとは何かを考えると、国民が年間新たに生産した財・サービスの付加価値の合計である。実際の所得ではない。そして、一人あたりGNIはこれを単純に人口で割った数字である。それ以上でもそれ以下の意味も無い。たとえば、人口の99%が現在の所得から半分ほど年収が下がり、残りの1%がミリオネアやビリオネアになった場合、一人あたりGNIは上昇する可能性がある。言い換えるならば、平均値に分布を表す意味は存在しないため、一人あたりGNIを用いて中間層が増加しているとか減少しているとかは言えないということである。より正確には、一人あたりGNIを用いて中間層の増加を何とか説明する手立てもないではないが、そのためには厳密な根拠と正確な理論が必要になる。しかし、現状のアフリカマクロ経済に関する報道では、こうした根拠と理論は見受けられない。よって、それらの報道を鵜呑みにすることはできないのである。

 

〈中間層実態と社会背景〉

 ここでは白戸圭一氏の中間層論を参照されたい。この論文を参照すると、ILO定義ではアフリカで中間層の割合はほぼ変動していないことが分かる。

http://www2.jiia.or.jp/kokusaimondai_archive/2010/2016-04_004.pdf?noprint

 これまでの議論を踏まえた上で、このような反論があるかもしれない。「アフリカで一人あたりGNIが上昇していることは実際の所得向上や中間層の増加を表す数字ではないが、それらを否定する数字でもない」。その通りである。そのため、現実のアフリカ諸国の現状を考えてみよう。

 アフリカ諸国で働く労働者の大半はインフォーマル部門の労働者である。つまり、企業に属さず、また多くの場合税金なども払わず、靴磨きや露天商、密造酒の製造やウェイター(ウェイトレス)として、その日暮らしに近い生活を送る人々である。ILO(国際労働機関)専門家のフレデリック・ラペイエ氏は「アフリカでは多くの国で農業外就業人口の半分以上をインフォーマル経済の就業者が占め、例えばタンザニアでは76.2%、マリでは81.8%に達しています。」と発言している。

事象解析:インフォーマル経済: ILOの新基準を用いてインフォーマル経済の罠から抜け出す方法

 加えて、近年のアフリカ経済の問題として、雇用なき成長とか貧困削減なき成長という言葉がある。華々しいGDP成長に比べて雇用が増えておらず、貧困削減効果が薄いのではないかという議論を表した言葉だ。貧困削減がないにも関わらず、中間層人口は増加するだろうか。日本の報道とはまるで真逆の様な問題提起が開発援助機関や開発研究機関から発せられるているのである。そして、こうした現状を踏まえた上で、果たして魅力的な市場へと成長する兆しを見つけ出すことができるだろうか。筆者は積極的に肯定することはできない。

 マクロ経済指標とは経済状態を正しく理解するための補助線のような役割であると、筆者は考えている。日本の様に確度の高い統計データが完備されている国は世界的にみれば少なく、ましてやアフリカ諸国のデータには何かと問題が多い。それらをあたかも絶対解として理解することは、実際の経済状況を誤解あるいは曲解してしまう可能性を常にはらんでいる。経済指標を用いる場合は適切に、尚且つ適用する国の社会背景まで理解して用いなければ、誤解するリスクは跳ね上がるだろう。

 これら経済指標の理解に関する議論は初歩的なもので、経済学部ならば学部レベルの議論であろう。数字は分かりやすく強力であるが、それに振り回されることがあってはならない。冷静な報道が広まることを願っている。

 

世論調査が民意と乖離するとき~ケニアの2017年選挙考察~

〈空虚な数字〉

 

 選挙の話題はケニアで最もホットなトピックであり、日常会話の中でも喧々諤々の議論を巻き起こしている。先日、弊社の社員と選挙に関する話題になった時、私は社員にこう伝えた。「ケニアのマスメディアが伝える世論調査で、信頼できる数値を出しているものはない。数字という分かりやすさに翻弄されてはならない」。奇しくも今日のDaily nationでケニア政治学者である、ガブリエル・リンチが選挙と世論調査に関する記事を書いていたので、改めてこの問題について考えてみよう。リンチの記事のリンクは以下のとおりである。

LYNCH: Presidential election could be won in first round - Daily Nation

〈バイアス(偏り)と社会状況〉

 

 先ず始めに断りをいれておくと、これは世論調査を実施している会社の能力の問題ではない。連日紙面では様々な調査会社が行っている世論調査のデータを公表しているが、これらはきちんとした調査設計を元に行われているものだろうと思う。特にIpsosは筆者が信頼する機関であり、そのデータはとても参考にさせてもらっている。それにも関わらず、なぜリンチが「Now, clearly, opinion polls are not an exact science(現在明らかに、選挙に関する世論調査は科学的なものではない)」というような状況になっているのだろうか。リンチの議論はリンクを参照してほしいが、私はケニアで選挙に関する確度の高い世論調査を実施できる機関や組織は存在しないと考えている。理由は主に1. 回答者にバイアスがかかっていること、そして、2. 政治的意見をストレートに発言できないケニアの社会状況を挙げたい。

 先ずは回答者のバイアスについて考えてみよう。選挙管理委員会であるIEBCが公表している投票者として登録された人数は19,611,423人である。それに対して、調査会社が実際に聞き取りを行っている人数はおよそ2000~4000人である。約2000万人に対してそれだけの人数で本当に信頼できるのかという疑問はありそうだが、統計学的にはこれだけの人数を調査すればある一定の信頼レベルを保った、有意な調査ということになる。机上の調査設計としてはまあ問題はない。

 それでは実際に調査を行う上でどのような問題があるのかという論点に移ろう。現在話題に上がっている調査の多くは電話による聞き取り調査である。これは調査会社がストックしている被質問者候補に対して行われているものであり、バイアスがここにある。本来は投票登録者全体(すなわち約2000万人)からランダムに聞き取りを行わなければ確度の高いデータは得られないが、調査会社がストックしているリストはせいぜい数十万程度であろう。なおかつ「調査に対して(取りあえずは)回答する」人達というグループである。実際の投票登録者には仕事が忙しく調査に回答できないものや地方で電気利用が難しく携帯電話の電源を入れたがらない者など、多種多様な非協力者も含まれるだろう。これら調査に積極的に協力するものからのみ得られたデータを投票登録者全体のデータとして代表することはいささか違和感が生じる。

 より重大な問題はケニアの社会状況であろう。多くのケニア人は調査、特に政治に関する調査に非協力的である。これは自らの政治意見を明らかにすることで、自身が所属しているコミュニティから迫害されたり、時には攻撃されるという深刻な事態に発展する危険性があるためである。筆者が実際に聞き取りを行った事例を紹介したい。現在とある地方都市のMCA(日本で言えば市議会議員の様な立ち位置か)をしている男性は、2007年選挙時に所属コミュニティから支持政党が異なることを理由に襲撃を受けた。家は焼き討ちにあい、妻は殺害された。男性の父は負傷して足に後遺症が残り、男性自身も生死の境を三週間さまよったという。民族と政党、そしてそれらをとりまく利権と金の問題はケニアに深く根付いており、人々は日常レベルで政治と権力の脅威にさらされている。残念なことに、こうした政治意見と支持政党をめぐる対立と暴力はケニアにおいて珍しいものではなく、調査主体が如何に被質問者に対する匿名性を約束しようとも、その恐怖まではぬぐいさることはできない。暴力が一旦沈静化したように見えても、少しきっかけを与えただけで何時でも再燃の危険があるものである。世論調査の中には街角でのインタビュー形式のものもあるが、こうした状況で自らの政治意見をストレートに伝えられるものは少ないだろう。もし答えられるものがいるとすれば、おそらく経済的に自立し、コミュニティから一定の距離を保てるものか、あるいは自身が権力を保持しているものであろう。つまり、選挙に関する世論調査に好意的に答えるもの、あるいは答えられるものは必ずしも投票登録者を代表していない。そのため、得られた数字は確度が低いものである。

 

〈実現可能かつ意味のない調査〉

  こうした背景を見た上で再度結論付けるならば、ケニアにおいて選挙に関する確度の高い調査を行える機関は無いということである。取り敢えず数千人の回答を集めることはできる。しかし、そのデータがどこまで信頼に足るデータか、対象全体を代表しているデータかという疑問は解消されない。回答者の安全を確保するため、匿名性を持たせたネット調査はどうだろうか。ケニアでネットに頻繁にアクセスできる人間、それも調査の回答のためにアクセスできる人間は限られているため、やはりバイアスを消しきれない。これまで行われている世論調査は一定の参考にはなることを認めつつも、選挙結果に関しては神のみぞ知るということなのだろうか。

 一点付け加えるならば、今回の選挙の最大の争点はもはや得票数ではなく、透明性に関わるものである。またの機会があればこちらも紹介したい。

「ChineseからJapaneseになる私」

 私には密かに自慢していることがある。それは、「私がよく歩くエリアでは、私はJapaneseと声をかけられる」ことだ。何が何やらさっぱりな方もいるだろうが、こちらの現状を知っている方からは、「本当ですか、それは凄いですね」と褒めてくださる方もいる。おお、その価値と意味をわかっていただけるか。汗水垂らして現場を歩いている甲斐があるというものだ。

 

 上記の自慢について、少々説明が必要だろう。

 

 現在、サブサハラ・アフリカ諸国で東アジア人を見かけたとき、ほとんどの場合で現地人はそれを中国人と認識する状況である。一昔前までは東アジア人=日本人として声をかけられた時代があったそうだが、残念ながらそれも今は昔のことである。如何せん、こちらに入り込んでいる人口が絶対的に違うのだからしょうがない。それに近年では援助やビジネスでの存在感は抜群であり、ケニアの一般市民の中からは中国語学校に通い、将来中国の建設会社に入りたいという若者まで出始めている。エリート層が中国政府によって各国で展開している孔子学院に入学するということとはレベルが異なり、ここでは既に一般市民のステップアップ先として、中国というキーワードが関わり始めている意味は大きいだろう。国によっては反中感情が大きい国もあるが(ザンビアなどは典型的だろう)、アフロバロメーターの調査からも分かるように、過半数以上が中国に対して、様々な思惑はあれど、ポジティブなイメージを持っているのが現実である。

 

 そんな訳で、普通に歩いていてもJapaneseと声を掛けられることはまずない。しかし、今後私のビジネスを進める上で、私が日本人であると周知しておくことは重要になってくる。そのため、このようなやり方をよく実践している。私が新しいエリアで活動するとき、たいてい私の土台となる対象が宿、食堂、そしてキオスク(小売商店)だ。私が踏み入るエリアは日本人だけなく現地人ですら危険な場所もあり、そのため初めは活動範囲を広げることはない。冒険RPGゲームではとりあえず宿と酒場に行けば情報が集まるなんてことがあったりするが、感覚的にはそれに近いかもしれない。用事がなくても宿や食堂、キオスクに出入りし、何度か実際に利用する。他愛ない軽口がこういう時にはとても役立ち、それに加えいつも同じオーダーをすることでこちらの存在を印象付ける。ここで一番重要なことは、私という人間が商品を受け取ったときにちゃんとお金を支払う、つまり約束を守る人間だということ、そしてその宿や店のサービスと商品を気に入っているから通っていることを相手に理解してもらうことだ。

 

 例えば食堂にいくときは「いやー色々レストランはあるけど、ここのウガリはいいね。俺が昔滞在していた村のばあちゃんが作ってくれたウガリに似ているよ」、なんて言葉を添える。相手からすれば、なんでこの中国人はケニアの村に滞在したことがあるんだ、しかもチョップスティックは使わないのか等と次第に興味が高まってくる。相手がこちらのオーダーを覚えてきたくらいの段階で、もう少し踏み込む。「お、いつもの覚えてくれたんだ!有難う、ミスター…?そういえばおっちゃんの名前聞いてなかったよね?俺は友達からマサって呼ばれてるよ。日本人だ」。こんな感じで切り出すと、多くは「お前日本人だったのか。中国人だと思ったよ」のくだりがあり、後は自然に仲良くなれる。その後はさらにこちらを信用させると、今度は向こうから話しかけてきたり、こちらの頼み事を聞いてもらえるようになる(余談だが、ダウンタウンにはツケがきく行きつけの店がいくつかある)。そして、相手の信用度合いに応じて、活動エリアを広げていったり、全く別のエリアを歩くときは同じことの繰り返しだ。こうやって、私は次第にChineseからJapaneseと呼ばれるようになる状況を作っていく。裏を返せば、計算尽くで現場を歩けない人間は、危険なエリアには決して踏み入ってはならないし、私でもときに慢心してしまった場合は危ない目にあっている。くれぐれも慎重に、だ。

 

 これからアフリカを歩く日本人はどんどん増えていくだろう。残念ながら、現地人から中国人と誤認されて、トラブルに巻き込まれてしまうケースも存在する。時と場合によるが、こちらで長く活動したいという方には上記のやり方を試してみることをおすすめしたい。

「街に寄り添うミシンの歌」

 レポートを読み込んでいると外がだいぶ暗くなっていることに気づき、いつもよりも遅めの夕食を取るために街へ出た。少々レポートの内容に夢中になっていた様だ。空きっ腹を鳴らしながら、今日はニャマチョマ(牛の焼き肉)にしようか、たまにはマトゥンボ(モツ煮)にしようかと考えながら、ボロアパートの部屋を出て、馴染みの食堂へと歩き始めた。私の住んでいる街は主にミドルクラスの人々が生活しているとされているが、通りには街灯がほとんどなく、店から漏れ出る明かりや車のライトが道を照らす。つまり、ケニアでミドルクラスの街といってもそれはスラムや農村ではなく、はたまた高級住宅街でもない、そんな中間にある地域なのである。通りには未だに水をボトルに詰めて売り歩く者や、どこかのマーケットから仕入れてきた野菜を売る者、靴やアクセサリーを売る露天商がギュウギュウに詰まった、ケニア庶民の風情が漂う「味わい深い」街でもある。

 

 アパートから出てすぐのところで、カタタタッという規則的な音が耳に入り込んできた。無意識に音の出る方へ顔を向けた。そこにはいつも通り過ぎていた服屋があった。私の会社のオフィスへ続く道の途中にある店で、これから仕事に行こうとしていたときには耳に入ってこなかった音だった。なんとなくその店を眺めていると、男性がミシンで服をあつらえている様子が浮かび上がってきた。椅子に腰掛け、木の机の上にあるミシンを操り、布から服を作る最中である。暗い外からみると、室内の明かりが窓枠によって四角に切り取られ、まるで舞台か何かの様な情景を思い起こさせた。不思議なもので、まぐれもなく日常の一風景にすぎないはずなのに、近くて遠く感じる、どこか幻想的な肌触りを覚えた。それは多分、古く懐かしいミシンの音を聞いたせいだった。

 

男性は意気込むほどでもなく、かといって淡々としている様でもなく、当たり前の様に手を動かし、布を服に仕立てていく。布がみるみるうちにシャツに生まれ変わっていく。その様子を見ていると、彼が服を作るということが好きなのだということがすぐにわかる、そんな仕事ぶりだった。ミシンの音が規則的になり、一息つき、また規則的に鳴り響いている。不意に私の実家でも母がよくミシンで雑巾を作ったり、そういえば学芸会の衣装を作ってくれたことを思い出した。あの頃は夕食が終わった後、母はよくミシンを使って何かを作ってくれていたが、いつの間にか忘れかけていた。あの時の母はどのような表情をしていただろうか。彼の様な清々しく、暖かみのある表情をしていただろうか。自分はケニアにいるのに、思い馳せるのは日本のことなのが、どこか可笑しく思えた。遠い過去の出来事を今に繋げてくれたミシンの音が、何故かとても大切なものに感じる。そうか、当たり前のことなのかもしれないけど、ここでもミシンはあるのだ。しかも、人々の生活に寄り添う様に。そんな当たり前を忘れかけていた。

 

 流石に腹が空いてきたので私は店を離れることにした。少し歩くと、音はたちまち街の喧騒の中に隠れてしまった。ただ、頭の中で反芻する音は鳴り止まなかった。せっかく思い出した音を、今度はもう少し大切にしようか。また少ししたら、この音を聞きたくなってあの店に立ち寄るかもしれないと、ぼんやりした頭で考えていた。

「不確実性の世界」

 

 ドナルド・トランプ氏が大統領に就任しましたね。ブレキジットといい、現地大衆の支持が国際世論と乖離する事態が続きます。

 今や世界は予測の付かないルール下でゲームを戦わざるをえない状態に陥りつつあるように思えます。現行のグローバル社会を支配する二大主義(資本主義、自由民主主義)に対する懐疑論は今後一層強まっていくことでしょう。これは市民間で生じる経済的な動揺が大きく影響していると考えています。つまり、一部の新興層、富裕層を除いた大衆の経済レベルが悪化し、これまで比較的順調に運営されていたシステムを疑わざるをえない状況に陥りつつあるということです。

 先ずは現行の資本主義制度に関する私見を。富の格差が増大し、ゼロサムゲームが行われる舞台の規模が大きくなり、歯止めがきかない状況であると認識しています。過去ならば政府などが富の再分配に一定程度の影響力を持っていたでしょうが、現在では巨大企業の影響力が大きくなりすぎ、トップ層がより強大な権益を持っているため、調整役を担うものがいなくなっているのではないでしょうか。少なくとも、調整力の衰弱はあるでしょう。元々資本主義にはこのような性質が存在していることは認識されていましたが、これまで様々なアクターが関与してそれなりのバランスを保っていたシステムは、一部のアクターがパワーバランスを破壊したために、大衆の経済基盤を支えるシステムとしては機能不全を起こしているように見えます。だからこそ、修正資本主義論などがあるように、資本主義のアイディアを引き継ぎつつ、大衆に寄与する新たな資本主義システムの模索が盛んに行われていると認識しています。

 次に自由民主主義(以下、民主主義とする)についての私見を。民主主義は単なる「多数決の票取りゲーム」ではありません。民主主義を構成する人間に市民としての能力と責任がない場合、民主主義は機能しません。本来参政権は多くの血と汗の努力によって市民がかちとった権利のはずですが、現在多くの人々が無自覚にこの権利のみを享受し、責任を軽視しがちです。市民が自ら立ち上がろうとする意思がない状況下では、強くリーダーシップのある指導者が求められます。また、次代の指導者の座を狙うものは、こういう状況をとても良く認識することになります。そうした状況下では、指導者の勝ちやすいパターンが歴史上何度も繰り返されており、例えば①仮想敵を作り出し、人々の不満や不安を煽り、集中させる、②自らを仮想敵の打破や現状の破壊と再生を訴える英雄として認識させる、③自らを反対するものには徹底的に敵対しなければならないため、言動が過激になる、という流れが多いでしょう。どこかで聞いた話ではないでしょうか。少しドキッとしませんか。一番の問題は、そもそも解決が困難な問題に対して耳障りの良い公約を掲げたとして、果たして実現可能性がどれほどあるかということです。トランプ氏がぶちあげた国境に万里の長城を建設するなどは論外でしょう。別視点からみれば、アメリカ国民はそうした荒唐無稽な発言をするものを支持せざるを得ないほど追い詰められているという視点も持つべきでしょうか。

 現行の世界を支配する二大主義の動揺によって、これからどんどん予測が難しくなる世界、つまり、不確実性の高い世界になることが予想されます。こうした状況下では、人間は守りに入り、じっとしている人の数が多くなるでしょう。株価の乱高下やリスク資金の引き上げ、外交上の緊張など、良い影響は少ないでしょう。こうした状況だからこそ、歴史を振り返ることで、今後の情勢を理解する杖あるいはスコープとしたいところです。