「私はこの国に疲れてしまったよ」と、彼は言った。
穏やかな日だった。この頃続いた雨が嘘の様に去り、頭上には爽やかな青空が広がっていた。オフィスが面する路地では子供が石を蹴飛ばして遊び、通り向かいのアパートでは女性が洗濯物を干していた。溜まった家事を一気にこなすのにはもってこいな、そんな穏やかな日だった。
休憩がてらに庭で水を飲んでいると、来訪者が現れた。私の友人だった。大手のメディアで長年ジャーナリストを続けてきて、これまで歴代の大統領を含む名だたる政治家とも対談を行ってきた人物だ。今は独立し、会社を経営している。
この頃顔を合わせることもなかったので、積もる話はいくらでもあった。その中で、最近紙面を賑わす某氏の変死事件に触れたのは当たり前のことだったかもしれない。その事件に関して様々な憶測が乱れ飛び、紙面やSNSだけではなく、日常生活の中でも密かに議論が交わされていた。
状況だけを見れば、誰が何のためにその事件を引き起こしたのか、嫌になるほどあからさまであった。しかし、多くのメディアが取り上げたにも関わらず、肝心の情報については綺麗に空白で埋められていた。
少し話が進んだとき、彼は唐突に切り出した。変死した某氏は、彼の親戚らしい。とても優秀で海外にも留学経験があり、この国の将来を支える人物と周囲から期待を受けていた。そんな人物が突然、殺されてしまったのだ。ただ殺されたのではない。拷問された上で殺されたのだ。
「状況を見れば、誰が何のためにやったのかなんて分かりきっていることじゃないか。なぜメディアは報じないのか。それも分かりきっていることじゃないか。報道できないのだ。既に現場に圧力がかかっているからだ。今新聞を読んでも何も意味がない。それが今のこの国の現状なんだ」
いつも陽気な彼の表情が、その時は曇っていた。そんな表情を見るのは初めてだった。私は彼の悲しみに歪む顔を見たくはなかったが、きっと私も同じ顔をしていたのかもしれない。
彼の顔を見て言葉を失い、少しだけ沈黙が続いた。どこかに出口を求めて彷徨うかの様に、彼はぽつりと呟いた。
「私はこの国に疲れてしまったよ。疲れた。本当に疲れたよ。」
言葉通り、何もかもに疲れ切ったような表情をして、彼はそう言った。頭の中で彼の言葉を反芻した。これまでも、おそらくこれからも、私はそのような台詞を人生で吐くことは無いだろう。その事実に気づいたとき、私は腹の底にある冷たい鉛の感触を自覚した。
再び沈黙が続いたあと、彼はビジネスのことで調べ物があるといってオフィスに戻っていった。その姿は、何とか会社のことで頭を埋め尽くし、認めたくはない現実から逃れようとしている様にも見えた。
私は何をする気にもなれず、一人屋外に取り残された。路地ではまだ子供が石を蹴って遊んでいるだろう。通り向かいのアパートでは既に洗濯物を干し終え、一息ついていることだろう。頭上には爽やかな青空が遠々と続いている。
穏やかな日だった。どうしようもなく穏やかな日のことだった。
そのことが私の眉間に皺を刻ませ、歯を食いしばらせた。