たとえ言葉が風だとしても~開発的ビジネス論序論~

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民族・階級・正義のロジック~選挙分析の基本軸~

注:長文注意。結論部だけでも可。

 

 先ず触れなければならないことは、前回記事で『誤報』としたケニア選挙委員会の人員入れ替えは結局不完全なまま終わり、結果として、残念ながら『誤報』ではなかったという点だ。私が前回記事で誤報とした情報が出る少し前まで、ケニアフリーランサーの間では人員入れ替えは結局行われないという確度の高い情報が出回っていた。その後各ケニア新聞社が報じた様に新しい人員刷新案が発表されたため、期待も含めて前回記事を『誤報』としたが、現在でもチェアマンであるチロバ氏を含む複数の職員が組織内で発言力のある立場から離れていない。同氏は先日IEBCが最高裁に提出した情報源に誤りがあったとする声明を発表するなど、政局に影響を与え続けている。8月の本選挙時に責任のある職員の委員会離脱を期待しつつ、今後の推移を見守りたい。

 

 さて、本記事の趣旨は一部の方に見られる与党勝利の予想(期待)には必ずしも根拠が伴っていない現状を踏まえて、再選挙を分析する上で基本的な3つのロジック(理論)を個別に、あるいは複合的に組み合わせた意思決定を批判検討するというものである。次回選挙結果は安全保障に直接的な影響を与えるにも関わらず、分析軸として必要となる観点が見落とされており、冷静な分析が行われているとはいえない。本記事では現代アフリカ政治研究を軸に、単純な民族と支持政党が一致するという想定が現状適用することができない点を指摘したい。可能な限り学問的概念を肌感覚に沿うものに翻訳した上で理論を展開することを試みたい。

 また、本記事は特定政党を支持するものではなく、あくまで現在流布されている選挙予想の問題を批判検討する場にしたいと望んでいる点は留意されたい。

 

 

〈民族のロジック〉

 先ずは民族の論理を見ていきたい。本記事では民族理論を簡単に以下の様に定義したい。「民族に属する集団は民族全体の利益を増大させ、同時にその利益の一部を当事者が享受することを期待し、同一民族の政治的リーダーを支持する」という想定をしよう。実際にケニアの様々な民族集団内の言説では、もし自民族の政治的リーダーが権力を得た時に、集団そのものが利益を享受できるという期待を語るものが多い。これは特に政治的リーダー→民族集団構成メンバーに同言説が伝達され、この言説を支持するものが実際に支援活動ないし投票といった形で同理論を支持する。この想定を拡大化、単純化した考えが「民族集団は同じ民族の政治的リーダーを支持する」というものである。

 こうした考えが多く支持されている時代は確かにあった。しかし、現代アフリカ政治研究ではこの考えは傍流に押しやられている。日本人の肌感覚に沿った例えを試みたい。日本はほぼ単一民族国家なので、ここでは民族を『出身地』に置き換えてみたい。ある程度規模の大きい都市の市長選挙を想定する。市民は様々な地域から流入してきているが、ある程度大まかに出身地は限定することができる。市長選挙を行う際に出身地AからリーダーA、出身地BからリーダーBが立候補した。あなたの出身地がAであった場合、出身地だけを見てリーダーAを支持するかどうか。リーダーAが市長に当選したとして、そこから利益を享受することをどれほど期待できるか。この理論が持つあまりに単純化した考えが持つ危険性がこの点にある。ケニアの社会状況に立ち戻ると、確かにケニアでは、不正やインフォーマルな繋がり、省庁や行政法人のポスト配分により利益を享受できる期待の割合は大きいかもしれない。しかし、その利益が一般市民にまで広く分配されてはいないことも事実であり、結果として多くの市民の間では「誰がリーダーになっても得られる利益は変わらない」という状況を否定することはできない。よって、こうした単純化した理論を支持することはできない。

 同理論を用いた与党勝利の想定としてよく聞かれるものは、「与党は多様な民族の政治的リーダーから幅広く支持されており、その支持者からも支持されているために再選挙時に勝利するだろう」というものである。この想定には少なくとも2つ問題点がある。まず、現在紙面を賑わせているように、与党支持を表明する政治的リーダーが増えているように「見える」点は事実かもしれない。しかし、実際には与野党を含めた支持政党における政治的リーダーの鞍替えはMCA(市議会のようなものとここでは理解してほしい)レベルから国会議員レベルまで頻繁に行われているにも関わらず、奇妙なことに大手新聞社が報じている内容は与党支持の情報で埋め尽くされており、野党支持に対する扱いはほとんど確認できていない。言い換えれば、報道が偏っていると言わざるをえない。次に、たとえ政治的リーダーが支持を表明したとしても、住民がその支持に反抗し、政党キャンペーンの受け入れを拒否する例が確認されている。つまり、民族を軸としたリーダーと支持住民という関係が、上記で論じたように単純に想定することができない。特筆すべきは後述するキシイ人の例だろう。結論としては、単純な民族理論を用いた選挙分析は住民の意思決定構造をあまりに単純化しており、適用に値しない。

〈階級のロジック〉

 本記事では階級理論を「個人が属する階級において、個人の得られる利益を増大あるいは保持することを優先して、支持する政党ないし政治的リーダーを決定する」ものと想定したい。民族理論と異なる点は、個人の利益を重視する点だろう。ここで階級とは経済的、政治的、社会的なピラミッド関係を基にした上下関係としたい。ケニアにおいて、階級社会は厳然と存在しており、階級内の意思決定から行動様式、服装や食事にいたるまで様々な点で異なっている。例えばアッパークラス(上位階級)では週末に高級ショッピングモールに行き、食事とショッピング、あるいはスポーツなどをして余暇を楽しむかもしれない。ミドルクラス(中位階級)では近場のチェーンスーパーマーケットに行き、たまの贅沢におやつとソーダ(炭酸飲料)を買うことを楽しみにしているかもしれない。ロウワークラス(下位階級)では馴染みのローカルレストランでチャイ(お茶)を嗜み、仲間と共に冗談と社会へのヤジを飛ばすことが唯一の娯楽かもしれない。

 階級理論に沿えば、上位階級に近ければ近いほど与党を支持し、下位階級に近ければ近いほど野党を支持する傾向があるといえる。これを既得権益の関係から説明したい。ここでいう上位階級者は、たとえば国会議員、官庁の重役ポストに就いているもの、あるいは有力ビジネスマンが代表されるだろう。上位階級者は既に利益を享受しているものたちであり、現在の経済・政治・社会構造の変革を望まない。何故ならば変革が生じた際に、個人の利益を失ってしまう可能性に曝されるためである。反対に、下位階級者は現在利益を享受していない立場の者たちであり、既存に利益分配構造を変革するために野党に期待する。階級理論でいえば、民族という枠組みを飛び越えて、個人の利益が優先される。そのため、たとえば違う民族の政党であっても、上位階級であれば与党を支持する。下位階級では逆である。また、上位階級者が期待する点が主にポスト配分の保持や増大であるのに対して、下位階級者が期待することが政策である点も留意したい。ここでいうポスト配分は明確な役職に加えて現在個人を取り巻く政治経済的な人脈も含めたい。ここで重要な点は双方ともに「これからの期待」を基に意思決定をするという点である。つまり、いくら公約として掲げていても、これまで実施されなかったポスト配分や政策を意思決定者は期待することはあまり想定できない。そして、それぞれの階級に属する者が期待するものが違う理由は、それぞれの階級で個人の利益を増大ないし保持することに対して期待できるものが異なるためである。民族理論とは異なり、それぞれの階級者にとって直接的な利益を見込める期待が存在する。

 いくつかの研究では、2007年前後を境にして、ケニアでは民族集団よりも階級が政治行動において優先されているという現象が伝えられている。主な対象となっている民族集団はキクユ人であった。キクユ人内での階級分化は以前より指摘されており、近年では特に民族集団内で持つものと持たざる者が顕著となっている。こうした持たざる者たちの間でゲームのルールを変化させるために下位階級者に有利な政策を掲げていた野党を支持する動きや投票を含む支持活動に参加しなくなった者が現れてきたというのである。

 与党勝利の想定に適用するならば、現在ケニアでは格差が大きな問題となっている。マクロ経済は確かに成長している。しかし、自らの生活は変わらないだけではなく、物価や生活のコスト上昇でむしろ困窮している。これらは事実であり、こうした声が多く聞かれるのが現状であろう。昨年よりみられる多発するストライキや今年の干ばつによるメイズ不足とそれに対する政府の稚拙な対応など、与党に対する不満はすでに目に見える形で表出されている(そして、仮に野党が政権を奪取したとして、こうした現状が容易に変わるとは想定できない点も付け加えたい)。具体的な事例としてはナイロビ市長選挙を挙げたい。与党に属するマイク・ソンコ氏は与野党問わず、下位階級者からの支持を得て、ナイロビ市長に当選を果たした。筆者と弊社の調査チームでは、野党支持者にも関わらずソンコ氏に投票したという住民を多く確認している。これは階級理論の典型例として認識してもいい事例といえる。これを大統領選に適用するならば、比較的経済成長路線によるウフル現大統領に対し、公平な資源分配路線の色が強いと見られているライラ氏という対立構造があり、人口比率的に圧倒的多数な下位階級者あるいは下位中位階級者が現状のルールを変更するために、野党を支持するということは十分に考慮しなければならないシナリオである。

 

〈正義のロジック〉

 正義理論とはつまり正統化理論のことである。本記事では正義理論を「個人は属する集団の言説を参考にしつつ、個人の良識に従って社会的に正しいと思える選択を行う」ものと想定したい。同理論は現在のアフリカ政治研究ではあまり研究の主体とはなっていないことを認めつつ、10月の再選挙時に極めて重要な意味合いを持つため、簡単に触れていきたい。

 正義理論が上記2つの理論と決定的に違う点は、意思決定において利益ではなく、正義(社会的に正しいと思えるもの)を重視するという点である。人間の意思決定は、必ずしも利益だけでは計り知れないことには異論の余地はないだろう。たとえば主流派経済学が想定する合理的経済人(個人が自らの利益を最優先に追求するために最適で合理的な選択を行うことを想定している人物像)が政治学の分野でも適用されたことで、現在論争が続いている。特に政治学研究者からの反論が顕著であるが、これには人間というものが必ずしも個人の利益を最優先に意思決定を行うものではないという実例が存在しているためである。人間は個人の利益に加えて、集団の利益、あるいは自らとは関係のない他者のために意思決定を行うことがある。簡単な例であれば、仕事帰りの電車で年配や妊婦の方が席を探している状況を想像して欲しい。ここで合理的経済人ならば自らの利益を優先して、席を譲らずにそのまま休息を取り続けることが選択されるかもしれない。しかし、そうした場面であえて席を譲るという選択も現実を生きる我々は行うことがある。なぜならば、個人の利益よりも社会的に正しく望まれている選択を理解し、自らの利益を放棄することができるからである。ある人にとってはここに人間性というものを見出すかもしれない。

 ケニア人においても正義の実践は日常の中から簡単に見出すことができるが、筆者は特に2008年前後のケニア市民の行動を挙げたい。これまで何度も指摘してきたように、ケニアにおいて2007年末から2008年初頭にかけて、史上最大規模ともいえる暴動が発生した。ここでは民族集団(とおもえるもの)同士の衝突により、殺傷事件や人道に対する罪が頻発した。その残酷な事件の裏では多くの勇気あるケニア人の行動が報告されている。たとえば民族集団Aに属するものが民族集団Bに属する隣人に対して、暴動が計画されているため事前に避難を喚起したという事例は数多く報告されている。また、暴動に巻き込まれた見ず知らずの他民族集団のもののために仲裁を試み、我が身を呈して守りきろうとした事例もある。暴動後のケニア社会では暴動発生の反省から、真剣にケニアの平和を望み、同じ過ちを繰り返さないために各地で講演や平和教育が盛んに行われてきた。筆者はケニア人の平和に対する真摯な感情が、少なくとも以前よりは醸成されてきていることを感じている。

 再選挙に正義理論を適用するならば、現在与野党で論争の中心となっている2点を挙げたい。一つは与党による選挙法改正の試みである。与党は8月の選挙が無効となった責任の中心を選挙管理委員会の手続きとそれに伴う選挙法にあると考えており、改正案を推し進めようとしている。最高裁の判決を受け入れながらも選挙キャンペーンでは最高裁裁判長のマラガ氏を中心に激しい非難を繰り返しており、諸外国(特に欧米諸国)から法の遵守を維持すべきという警告があるにも関わらず、選挙法改正の正統性を主張している。この点では自らの属する集団の言説に多大な影響を受けるため、支持者は民族毎の主張が分かれやすい状況になっている。何故ならば、ケニアにおいて言語、コミュニティ内で流布される言説は大きく偏っており、特にメディアを所有していたり影響力を持つ政治的リーダーと同じ民族の市民は直接的な影響を避けられないためである。ここは民族理論とも対比した考察が必要になるだろう。

 2つ目は野党による選挙管理委員会メンバーの辞職と選挙備品を提供する会社の変更要求である。野党は月の選挙が無効となった責任の中心を選挙管理委員会の不正、そして選挙備品の不適切な使用が原因と主張している。8月の選挙を振り返れば、投票終了時から既に不正と思われる不適切な動きは報告されていた。その後次々と明らかになった選挙用紙の不適切な管理や投票箱の違法な開放など、メディアを通じて選挙実施の問題が報じられてきた。特に選挙のオンラインシステムはやり玉に上がっており、野党は何度もシステムサーバーにハッキングされた証拠があると主張している。これらの不正を繰り返さないためにも、メンバーの辞職と備品を提供した会社の変更は必要というのが野党の考えだ。

 ここで(キシイに住む)キシイ人をとりまく特徴的な事例を挙げたい。キシイ人は元々与党の支持者が多数を占めると思われていた民族だった。しかし、8月の選挙時には野党党首のライラ氏が55%を獲得したのに対し、現大統領ウフル氏は43%に留まった。投票結果だけをみれば野党支持者がやや多い地域といえるが与党支持者も相当数存在する。こうした状況が変動したのは最高裁判決に対し、与党が非難を繰り返し始めた頃だ。各新聞社はほとんど報じてはいないが、KTNによると最高裁裁判長のマラガ氏を名指しで批判したことで、キシイ人の間では与党離れが起こっているというのである。裁判長のマラガ氏はキシイ人であり、そのマラガ氏批判がキシイ人の間で与党に対する抵抗を生じさせた。与野党支持者が混在する地域において、上記の二つの主張のどちらを支持するかも半々程度になる可能性はあったはずである。しかし、同地域に住むキシイ人はマラガ氏とマラガ氏の下した判決を支持し、与党支持から離れる動きが進んでいるのである。マラガ氏はアフリカで初となる選挙の無効という判決を下した裁判官として、欧米諸国から賞賛された。世銀はマラガ氏に約1.6億シリングもの法律書を進呈した。勇気のいる決断であったといえる。筆者はできるだけ偏りがでないように同地域に住むキシイ人5人に確認したところ、彼らはこの主張を支持していた。サンプル数が少ないため大勢の動きを見極める情報にはなり得ないが、参考程度にはなるだろう。正義理論においては「誰が、何を話してるか」、そしてそれによって「社会にとって正しく望まれている判断は何か」が鍵となるが、キシイ人の事例はそれを示す好例といえる。

 

〈結論〉

 かなり詳細を飛ばして論理展開をした点は反省しているが、投票の意思決定に関して様々な判断軸があるという点を理解していただけたら幸いである。現在のケニアの状況を考えた上でのポイントをまとめたい。

 

1. 政党と同じ民族=その政党の支持者という構造は単純には成り立たない

2. 個人が置かれている状況によって、どの軸を優先するかは異なる

3. 利益のみならず正義(正統性)が人の意思決定には大きく関わる

4. 既存の現地政治報道には偏りと限界があるため、必ずしも現状を捉えていない

 

 投票行動と投票数だけを捉えるならば、人々の言説の中にその答えがあることは言うまでもない。その主な言説とは、民族の言説、階級の言説、(主に民族内の)正義の言説である。これらの言説は相互に影響しあい、刻々と変化する。そして、それぞれの境界を意図的に偏り無く渡り歩くことなくして、これらの言説を理解することは困難である。先のアメリカ大統領選挙では大方の予想に反してトランプ氏が当選したが、その時指摘されていたことはマスメディアがサイレント・マジョリティの声をすくい上げていなかったことだった。ケニアにおけるサイレント・マジョリティは誰で、彼らの意見は何か。この点について考察を深めれば、結論は複数はないはずである。