たとえ言葉が風だとしても~開発的ビジネス論序論~

開発とビジネスの架橋を目指した新たなシステムを議論・検討・批判する場です。

TEAR GASS(催涙ガス、あるいは、人々を切り裂くガス)

 社員から電話が来た。現在某中東メディアからの依頼で記事作成を進めるためケニア中を回っているが、取材費が足りなくなったようで、至急入金をしてほしいと言ってきた。今日は大統領就任式が開催され、すでにカサラニスタジアムで野党支持者と警官隊の間で衝突が発生をしており、野党の政治集会が予定されているこの地域でもトラブルが起こる可能性は高かった。少しの逡巡の後、入金をするならば集会まで時間がある今がベストかもしれないと判断し、用心しながら外にでることにした。

 

 違和感を一瞬で理解した。外はいつもの状況ではなかった。人通りが異常に少なく、通りゆく人は心なしか足早に駆け抜けていく様だった。馴染みの新聞売りをしているおっちゃんもどこか途方にくれたような困った顔をしてこちらに笑いかけてきた。一目で分かる、今日は商売上がったりの日だ。せめてもとデイリーネーションを一紙買いこみ、悪い雰囲気だ、お前も気をつけろと二言三言交わし、私を用事を済ませるためキオスクに駆け込んだ。

 

 用事が済んだ後、定期的によるカフェで飯をかきこんでいた。今日の状況を考えるならば、しっかりと食べる時間は今しかない。自炊をしようにも店がほとんど開いていなかったため、比較的早く食事を用意してくれるここでさっさと食べ溜めておこうと考えた。メニューもすぐに出せるものを選び、テレビで流れる豪奢な就任式の様子を不安げに見つめていた。程度の度合いこそあれ、ここら一体の地域の住民で不安と恐怖を感じていないものはいないだろう。テレビの向こう側に映し出されるパレードのような光景を見て、なぜこことあそこはこんなに遠いのだろうかという疑問が頭をよぎった。

 

 その時、急な破裂音が耳を引き裂いた。すぐに分かった、これは催涙ガスの音だ。銃の射撃音が乾いた無機質な音なのに比べ、催涙ガスの射出音は少しくぐもって湿ったような音を出す。音の後には住民の悲鳴と怒声が追い付いてきた。ケニア人の野次馬根性はなかなか大したもので、外で騒ぎがあると多くの人は必ずと言っていいほど「何だ何だ」と様子を見に行く。しかしこの時は違い、さっきまでそこでお茶を飲んでいたおじさんが素早く身を翻し、あっという間に出入口のドアの鍵を閉め終えていた。唯一開いている窓の外では野党の集会に集まろうとしていた歩行者たちが先ほどまで進んでいた道を走って引き返していた。その方向を見て、警官隊のいる方向が分かった。また湿った音がした。催涙ガスが打ち出されると、弾を中心に人々がまるで蜘蛛の子を散らしたように逃げ出す。特に風下に位置しているときは大声で周囲に注意をしたりする。その様子が、私には民族や政治を中心に「分裂した社会」とまで言われるケニア社会の現状のように思えてならなかった。催涙ガスが打ち出されるたびに、確実に社会の、そして人々の何かが切り裂かれていった。

 

 外の騒音が収まってきたころ、いつも世話になっている店員が声をかけてきた。

「マサ、外に出たいの?今は出るべきじゃないわ。もう少ししたら、裏口から出ていくのがいいよ」

 それなりにこの店を使っているつもりだったが、裏口があることを初めて知った。奥まった部屋の隅にある古ぼけたドアをくぐると、アパートの大広間のようなところに出た。そこでは外の様子を心配した住民が険しい顔をしながら話し込んでいた。手近な人を捕まえて、自分の住んでいるアパートがここから近いが今通りを歩けると思うかと聞いた。彼の返事は、おそらく大丈夫だから、ちょうど今から外に出ようとしている住民たちと一緒に出ていくといいというものだった。私は彼に礼をいい、アパート住人と共に恐る恐る足を踏み出した。

 

 外は閑散としており、先ほどまで熱っぽく野党の集会に行こうとしていた若者たちも、暴力的な音をまき散らしていた警官隊も、誰も居なかった。ただいるのは自分と同じように、恐れをいだきつつも警戒して駆けていく通行人だけだった。いつもはあれほど混雑している道路に車は一つも通っていなかった。かわりに、そこらへんにある木の台車や枯れ木が炎と共に積み上げられていた。よく道を眺めてみると、通りに何か所か同じような炎と煙が見て取れた。おそらくは警官隊の進撃を阻もうとした、即席の足止めだろう。黒い煙が上がり、炎は奇妙なほど静かに燃えていた。道路の真ん中で炎が燃え盛っていても、誰もいなかったら騒ぎの一つにもなりはしないのだな、と当たり前のことが当たり前でないように感じられた。

 

 その後は何もなくアパートまで帰り、パソコンで政治集会の情報を集めることを始めた。しかし、耳だけは先ほどの催涙ガスの音を忘れられず、こんな時はどんなBGMを聞けばいいのだろうか、とありそうもない答えを探していた。