たとえ言葉が風だとしても~開発的ビジネス論序論~

開発とビジネスの架橋を目指した新たなシステムを議論・検討・批判する場です。

マラソン応援とネーションビルディング~「ケニア人」と「民族」って何?~

<使い分けられるアイデンティティ

先日カフェでご飯を食べていると、いつにもましてお客さんたちがテレビに熱い視線を送っていた。自分も気になってテレビに目をやると、ちょうどロンドンマラソンの終盤が放映されているところだった。お茶を飲みながらぼーっとしていると、女子ではケニア人選手が見事に一位でゴールした。周りからは歓声と拍手が沸き、我らがケニア人の優勝という喜びが広がっていた。

 

私はふと、何とも言えない違和感を覚えた。例えば日本人が日本選手の優勝を喜ぶ。これは理解できる。「ケニア人」が「ケニア人」の優勝を喜ぶ。これを素直に理解できないのだ。なぜなら、ケニアでは歴代的に民族というアイデンティティが強く存在しつづけ、特に選挙という政治が関わる場面では必ずと言っていいほど、民族問題が表面化してきた。去年の選挙でも民族ごとに社会が分裂し、小規模ながら死者がでる衝突まで発生している。優勝した女性選手とここのカフェに来るお客さんは異なる民族に属している。しかし、今は同じ「ケニア人」として、勝利の余韻に浸っているように見えた。「ケニア人」と「民族」を隔てる壁、これは高いのだろうか、それとも低いのだろうか。そんな疑問が頭をよぎった。

 

<「国民」って何だろう?>

そもそも国民とは何だろう?私達は、「国民」というものを直接見ることはできない。例えば、沖縄から北海道まで、私達は日本の国民であると思っている。日本代表を熱烈に応援している人たちもほとんどが日本の国民だと思う。しかし、これが日本人です、という意識を直接見ることはかなわない。にも関わらず、私達は確かに日本人というアイデンティティを持っている。これはどういうことだろうか。

 

ベネディクト・アンダーソンという有名な政治学者はこんなことを言っている。特定のアイデンティティ集団は共通の神話や言語、歴史等々を共有していると。裏を返せばそれら共有物を共有することで私達は特定のアイデンティティ集団の一員となるのである。どういうことか。例えば、沖縄では決して雪が降らないにも関わらず、おそらく雪女の昔話を知っているだろう。本来はありえないことである。しかし、現に彼らは知っている。なぜか、彼らが日本人として、同じ昔話を共有しているからである。日本全国桃太郎の話を知らない日本人は稀だと思うが、地元で桃が採れる地域は稀かもしれない。にも関わらず、私達は桃太郎の話を理解している。また、「大戦」というキーワードを聞けば第二次世界大戦のことを思い起こすだろう。日本語を理解し、日本の昔話または歴史として共有している、日本に住むアイデンティティ集団の一員であるからだ。分かりづらいかな。

 

こうした話はネーションビルディングに関わる。Nation buildingとは「国家建設」と訳されることもあるが、実際には国民統合や国民意識の造成のことを指す。国家建設はState buildingの方が一般的だろう。このネーションビルディングがアフリカでは極めて重大な課題であり続けている。なぜなら、独立後、国民として人々が一つにまとまっている国は稀で、多くの国で民族間の紛争や市民暴力の嵐が吹き荒れているからだ。フツ族ツチ族が衝突したルワンダジェノサイドは未だ記憶に新しいだろう。ケニアでも紛争、衝突、虐殺、暗殺といったことが民族を軸に行われてきた。一度酒が入ると、いつも紳士なケニア人が、ところ構わず他民族を馬鹿にしたり蔑んだりする発言を繰り返すということは珍しいことではない。一つ言えることは、時と場合によって、歴史的に「ケニア人」というアイデンティティよりも自らの民族アイデンティティを優先させる、ということは決して珍しいことではないということだ。

 

<多層アイデンティティの現在>

ケニアで民族アイデンティティは時に国民アイデンティティよりも上位にくる。しかし、マラソンの観戦をし、異なる民族の選手の優勝を喜ぶこともまた事実である。つまり、民族アイデンティティよりもケニア人としてのアイデンティティが上位にくることがある。去年まで血みどろの衝突、当たり構わず異民族の罵倒をしたり陰口をしていた住民がマラソンケニア人の勝利を喜んだりする。ケニアではこのように、多層的なアイデンティティがTPOによってそれぞれ顕在化することがよくあるのだ。

 

未だ「民族」というものはケニアで大きな問題であったりする。民族を理由に就職採用が決まる、入学許可の可否が決まる、川でおぼれる人を助けるかどうか決まる、近隣トラブルに巻き込まれるか決まる等々、多くの事柄の判断基準になっている。特に農村とスラムではこうした傾向が強い。もちろんそれには理由があるが、本記事では割愛する。ときにnegative ethnicityという言葉が示すように、民族を理由にとても理不尽で不当な扱いを受けることも多い。同じ「ケニア人」であるにも関わらず、だ。

 

ラソン観戦で無邪気にはしゃぐ彼らを見て思った。自分に少しでもかかわりのある事であれば、もしかしたら関わりのないことでさえ、一緒に喜んだり楽しんだりしていりゃあ、その内民族という小さい問題は忘れさられるのかな、と。それはあまりに楽観的な考えだと思いつつ、希望を抱くには無視できないくらいには大きい望みなのかもしれない。僕はやっぱり、「ケニア人」はケニア人として仲良くやってほしいと願ってしまうのだ。