たとえ言葉が風だとしても~開発的ビジネス論序論~

開発とビジネスの架橋を目指した新たなシステムを議論・検討・批判する場です。

開発援助と国際協力と開発の違いとは

 開発、と聞いたところで、多くの方は疑問符を抱かざるを得ないでしょう。「え、機械か何かで新しいものでも作ってるの?」と思われる方が大多数でしょうか。いえいえ、ここでいう開発とはそうした技術開発のことではなく、ざっくり説明するならば主に途上国などで貧困削減やインフラ開発、保健衛生の向上、行政官のトレーニングなどを行うことで、人々が今よりも豊かな暮らしを実現することを目的とした活動であり、またその過程のことを指します。

 

 ここまで話すと、読者の皆様の中には、「あ、知ってる!国際協力機構(JICA)がやっているODA(政府開発援助)のことだよね!?」と感づかれる方もいらっしゃるでしょう。とても物知りな方だと思います。もしかして途上国に関心を持たれている方でしょうか?ただ、細かーく説明すると厳密には微妙な違いがあるのです。今回はそのことについて説明をさせていただくと同時に、皆さん一人一人がどのスタンスで途上国だとか、世界だとかに向かい合うのがしっくりくるかなと考えてみる機会を提示することを目的として、この記事を書いています。

 

さて、本題に入る前に、先述したJICAってそもそも何をするところでしょうか?名前が国際協力機構ですから、国際協力を推進する機関だと思ってしまいますよね。だって、JICAのサイトでは以下のように説明があるのですから。

 

JICAは、日本の政府開発援助(ODA)を一元的に行う実施機関として、開発途上国への国際協力を行っています。

JICAについて - JICA

 

 確かにJICAでも国際協力活動と呼ばれるものは一部で行われています。しかし、実際にはJICAの本分はODA事業≒開発事業の実施団体であり、こうした説明が余計理解をこんがらがらせているかもしれません。一つ一つその違いを見ていきましょう。

 

 先ずは開発援助とは何かをみていきましょう。開発援助とは第二次世界大戦後のマーシャルプランがその始まりであると言われています。大戦後のアメリカとソ連イデオロギー対立(民主主義(資本主義)VS共産主義)を発端に、両陣営が自陣営にできるだけ多くの国を加えようとあちこちで競り合った時期です。アメリカはこのマーシャルプランを戦後復興を名目としつつも、自陣営、つまり資本主義側に引き入れるために行った政策と言われています。つまり、開発援助とはそもそもの始まりが政策であるため、どうしても国や上層部の意向を反映せざるを得ない性質を持つことは理解しなければならないでしょう。現在でも外務省が中核となりODA事業の企画・立案・調整が行われ、JICAがその事業を実施しています。こうした構図を見て、「JICAは外務省の下請け団体だ」という意見もあります。JICA職員の方からすれば「いや、我々は開発援助のプロである。断じて下請けではない!」と言いたくなるところかもしれませんね。開発援助が政策であることはよく分かる一例が対中国への援助ではないでしょうか。戦後賠償を放棄した見返りに日本は多くの開発事業を中国で展開してきた歴史があり、それは近年中国が驚異的に発展してきた最中でも行われてきました。私が学生時代にJICAや外務省の方とお話をさせていただいたときにも、対中援助をどのように日本国民に説明すればよいか、少々窮屈そうであった印象を受けました。スパッと「これは政策であり、国益のためだ」といっても反対する人はいるだろうし、中々難しい状況であったと推察します。

 

 さて、話を国際協力へ移しましょう。国際協力って…、何でしょうね笑。すみません、今は世界で色々な活動が生まれていて、国際協力と呼ばれるものが何であるかを表現する良い定義が無いように思えます。Wikipediaでは「国際協力(こくさいきょうりょく)は、政府間、他国間、あるいは民間で行われる、国境を超えた援助・協力活動のことである。」と説明があるように、雑にいえば国境を超えた活動ならば何でも国際協力と呼べてしまえる状況なんですよ。ただ、個々の活動では開発援助を初め、緊急支援、CSR、ボランティアetc. と区別が出来るので、そうした活動の定義から漏れた活動を一般論として国際協力と呼ぶことはできるかもしれません。私の認識では多文化理解活動や市民ボランティア活動が一番国際協力という活動に近いでしょうか。あえて定義として表すならば、「非政府、非企業活動であり、市民が中心となり他国の理解と相互の支援を目的とした、草の根レベルの活動」となるでしょうか。協力とある以上、お互いにポジティブな影響を及ぼし合い、発展していくというニュアンスは含めるべきでしょうか。ただ、NGOが途上国へ井戸掘りに行くような活動でもNGO事業と区分できますし、中古品を途上国へ支援するような活動もどの組織が関わっているか、どこからお金が流れているかで活動区分が異なってきます。うーん、難しいです。良い定義があればぜひ教えてください。まあ、広義的な意味としてはWikipediaの定義として理解すれば問題ありませんが、それらの活動の種類や性質がかなり異なるため、自分は一体どの分野で携わりたいか、関わりたいかを再考することは必要となるかもしれません。

 

 最後に開発の話をしましょう。この開発という概念にも多くの定義がありますが、現在最もそれらの概念に近い定義はアマルティア・センという方が用いる定義ではないかと認識しています。その定義とは、開発とは「A process of expanding the real freedoms that people enjoy(人々が供与できる実体的諸自由の拡大の過程)」である、ということです。冒頭では貧困削減云々が必要であると申し上げていますが、なぜそれらが必要かというと、人々が選択、供与できる自由が拡大するためであるからです。例えば、日本でダイエットに勤しむ方と途上国でお金がなくて物が買えない方の摂取カロリーが同じくらいであるとします。しかし、前者は自らの意思で選んで物を「食べない」のに比べて、後者は金銭的制約のために物が「食べられない」のです。前者には自由があり、後者には自由がなく、したがって後者の方が自ら選択し、望み得る人生を送ってもらうために開発が必要である、というように開発という概念では考えることができます。開発と自由とは不可分の概念です。貧困削減や保健衛生サービスの供与、インフラ開発等などの開発事業が必要とされる根本的な目的意識としては、この開発≒自由の供与があるのです。この自由が多い状態が即ち豊かさと表現してもいいかもしれません。ですので、GDPが向上して貧困削減が成功したということがそのまま開発、豊かさの実現に単純には結びつかないという点は注意しなければなりません。つまり、内実をみなければいけないということですね。

 

 以上3つの概念(開発援助、国際協力、開発)を見比べて指摘しなければならないことは、現行の開発援助では必ずしも開発を実現する上で効果的に働いていないということです。確かに開発援助は歴史上最も開発に貢献してきた活動です。日本も戦後に世界銀行国際通貨基金からお金を借りて戦後復興事業を行い、それが多くの人々の開発の実現を成功させたでしょう。しかし、先述の通りに開発援助とは政策であり、それが本当に貧しく、貧困状態に陥っている方に届いているのかは疑問です。国家のトップレベルで決められたことが、草の根レベルで有効性を発揮しているかというと、現実はそうでない例も多数あります。開発援助が悪いというわけではなく、開発援助だけでは開発を実現させるためには不十分だということです。だからこそ、国際協力なり、新たな活動やシステムが求められる時代であるとも言えそうです。

 

これらを概観した上で、それでは自分はどのレベルで活動したいかな、関わりたいかなという方が一人でも多く活動に参加していただければ思います。